Tuesday, April 30, 2013
日本語文法とロジック
前回のポストは<日本語文法とロジックの関係>のつもりで書き始めたがわき道にそれ、言語概論の一部みたいにななってしまたのでのでタイトルを<文法、ロジック、数学、物理学>に変えた。今回は現実にもどって、日本語文法とロジックについて考えてみる。主旨は日本語がロジックに向いているか向いていないかを調べることである。
1) A は B である。
2) A は B だ。
3) A = B
の違いを考えてみる。
2) の<A は B だ。>に比べると1)の<A は B である。>の方がロジック的である。なぜか?
2) の<A は B だ。>の<だ>は断定の助動詞とよばれるが、活用がほとんどない。断定は意味をもっている。断定は主観的だ。主観は間違いを多分に含むのでロジックにはむいていない。これに対して
1) の<A は B である>の<で>は上記断定の<だ>の変形ともとれるが(変形ではなく、活用とすれば、連用形だ)、<AとBの関係>を示す助詞ともとれる。助詞であるから<で>自体に意味はない。<ある>は日本語の中できめて重要な動詞だが(在る、有る、或る、などがある)一応存在を示す動詞としておく。存在は一般的には主観に関係なく<存在>する。<われ思う、ゆえにわれあり>というのがあるが、モノ、コト(特にモノ)は主観に関係なく<存在>する、と言っていいであろう。したがって、これは客観度が高い。
英語では1)も2)も< A is B.>だろう。 1)と2)の区別があるのは日本語の特徴といえる。
3) の<A = B>はシンボルだけで意味のある言葉がない。余計な言葉がないので客観度は1)より高いといえる。
数学、論理学上1)、2)、3)は正しくない。なぜなら、ある前提がない限り普通は<A と B は違う>からだ。 正しいのは
1)’ A は A である。
2)’ A は A だ。
3)’ A = A
だが、これではドウドウめぐりにもならず話が進まない。
次に否定を考えてみる。
1)’’ A は B でない。 A は B ではない。
2)’’ A は B だ。 --> A は B でない。 A は B じゃない(口語的)。 A は B ではない。
3)’’ A ≠ B
1)と2) が同じになってしまう。これも日本語の特徴といえる。なぜ同じになってしまうかというと、客観性の高い存在を意味する<ある>が客観性の低い否定の助動詞<ない>に変わってしまうからだ。<ない>は存在を示す動詞<ある>の否定だが、存在だけでなく、一般動詞、形容詞、形容動詞を否定する助動詞だ。<ない>は多くの場合ある意味で<断定>だ。
なお、<ない>は
<なく>ない
<なく>て、<なく>なる
<ない>
<なけ>れば
と活用し形容詞型の活用。実際<xx がない>の<ない>は助動詞でなく、動詞<ある>の否定を示す形容詞あつかいだ。
<1) A は B である。>の客観性の高さを保つためには
<A は B である>ではない。<A は B である>ことはない。 などと言えそうだが回りくどいし<ない>があるため主観が入ってくる。
3)’’ A ≠ B は言葉がないためか、客観性を保っているようだ。
また、 <A は B でない。> と <A は B ではない。>は同じではない。<A は B ではない。> は <A は B でない。> の強調と簡単に片付けるわけにはいかない。<は>は重要な助詞で基本的に<定>の意をともなう。(注:<は>に定という意があるわけではない)。また、関係を示す助詞<で>の後にきて<では>となっている。さらにこの<では>に否定の断定<ない>が続く。したがって、<A は B でない。>がかなり一般的な表現であるのに対して<A は B ではない。>は<A は (表には出てこないが、定の=すでに知られている)B でない。>という意の表現、または<A は (すでに知られている)B と関係ない。>という意の表現だ。
とかくロジックはややこしい。
sptt
文法、ロジック、数学、物理学
西洋では文法とロジック(論理学)は強い関係があるが、日本語文法とロジックの関係は勉強不足のためかあまり聞かない。
コンピュータ言語というのがある。 Japan-wiki (2013-05-01付け) の説明は次の通り。
”
コンピュータ言語(コンピュータげんご)とは、コンピュータ技術において用いられる人工言語の総称であり、形式言語である(親しみやすさなどの目的で、自然言語風にデザインされることもある)。
”
コンピュータ言語は<間違い>と<曖昧さ>がないことが特徴。ソフトであるコンピュータ言語はもちろん、ハ-ドであるコンピュータの心臓部のCPUの中、また周辺機器の中にもロジック回路がたくさんある。ロジック、ロジック回路は<間違い>と<曖昧さ>がないように設計、製造されてい
る。
形式言語は形式的な言語という意味ではなく、一般的には、意味を除いて言葉の形(from)だけ、あるいはこれを意味を取り除いた記号として見なし、記号の並び具合, つながり具合(syntax)だけからなる言語。しかし、並び具合, つながり具合には意味があり、また記述(表現)するためには意味がからんでくる。
またコンピュータ言語はプログラミング言語でもあるが、プログラミング言語はコンピュータを間違い(エラー) なく動かすため人工言語。コンピュータは(電子)計算機という日本語があるが、コンピュータに使われるプログラムの日本語はないようだ。あきらかに<目録>ではない。
引用が多くなるがJapan-wiki (2013-05-01付け) の<プログラミング言語>の説明の中に次のような記述がある。
”
自然言語との違い
プログラミング言語は、人間がコンピュータに命令を指示するために作られており、コンピュータが曖昧さなく解析できるように設計されている。多くの場合構文上の間違いは許されず、人間はプログラミング言語の文法に厳密にしたがった文を入力しなければならない。
これに対して、一般に自然言語の文法規則はプログラミング言語にくらべてはるかに複雑であり、例外も多い。ただしこれは規則が一般にいいかげんであったり、曖昧であるということではない。一般に自然言語の規則は奥が深く、驚くほどの合理性に裏打ちされていることがある。
また、自然言語の意味は、その文脈(コンテキスト)によって定まる部分も多い。これに対して、プログラミング言語は、コンピュータによって扱いやすいように、文脈によって意味が変わることができるだけないように設計されている。
自然言語は、誤用や流行などにより長い時間をかけ、たくさんの人間の利用により、意図せざる形で変化していく。しかし、プログラミング言語の規則は、言語設計者の意図と作業によってのみ、変更される。
"
文法と深い関係がある言葉にアルゴリズムというのがある。
さらに引用が多くなるがJapan-wiki (2013-05-01付け) のアルゴリズムの説明は
”
アルゴリズム(英: Algorithm)とは、数学、コンピューティング、言語学、あるいは関連する分野において、問題を解くための手順を定式化した形で表現したものを言う。算法(さんぽう)と訳されることもある。
問題はその解を持っているが、アルゴリズムは正しくその解を得るための具体的手順を与える。さらに多くの場合に効率性が重要となる。
コンピュータにアルゴリズムを指示するための(電子)文書をプログラムという。人間より速く大量に正しい結果を導くことができるのがコンピュータの強みであるが、そのためにはプログラムは正しく効率的なアルゴリズムに基づくことが必要である。
”
冒頭で述べた<西洋では文法とロジック(論理学)は強い関係がある>はこのアルゴリズムがかかわっている。
グラマースクール(grammar school)というのがあるが、これは、<イギリスなどの英語を話す国の教育史における数個の異なった学校の一つで、中世のグラマースクールの当初の目的は、ラテン語を教えることにあった。>(Japan-wiki (2013-05-01付け) 。 なぜラテン語を教えたかというと、宗教キリスト教)と当時の欧州の国際語が関係しよう。またラテン語を教えたいうことはラテン語文法も教えたということだろう。日本の学校が現代の世界の国際語である英語と英文法を教えるのに似ている。
文法を学ぶとその副作用(副効果)としてロジックを学ぶことになる。だが、グラマースクールでこれが意識されたのはずっと後のことだろう。いずれにしても、文法とロジック(論理学)、さらには数学とのは関係が深い。文法、ロジック(論理学)、数学に共通しているのは程度の差はあれ、抽象性だろう。<A は B である。>、<A は B だ>, < A = B>のA、B は日常の言語ではなんらかの意味を持つモノやコトだが、文法、ロジック(論理学)、数学では任意で、抽象化されている。
上述の<自然言語との違い> の説明の中に<一般に自然言語の文法規則はプログラミング言語にくらべてはるかに複雑であり、例外も多い。ただしこれは規則が一般にいいかげんであったり、曖昧であるということではない。一般に自然言語の規則は奥が深く、驚くほどの合理性に裏打ちされていることがある。>というのがある。sptt Notes on Grammar で相手にするのは自然言語の文法である。物理学は自然言語の文法(学)ににている。物理学は自然の中の法則を見つけ出す学問である。文法(学)は自然言語の中の法則を見つけ出す学問である。
ドイツの数学者ヒルベルトにヒルベルトプログラムというのがある。<公理論と数学の無矛盾性の証明に関する計画>のことである。そしてこれはゲ-デルの不完全性定理によって挫折させられる。内容を知らないと何のことだかわからないだろうが、数学しろうとの目から見れば、数学はルールに基づいた、さらにはルール作りの学だ(したがって、大きな自由がある)。 しかしルールには必ず例外がある。ゲ-デルの不完全性定理も数学でルールの範囲をでないので例外があるはずだ。したがって、ヒルベルトはそんなに悲観しなくてもいいのだ。これに反して法則は、神が作ったか自然が作ったか知らないが、完全であるべきものだ。
sptt
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