Friday, April 25, 2014

自動詞、他動詞-10、xxxている、xxxてある


自動詞、他動詞ポストの第10弾だが、前回のポスト "日本語の時制と<ある>、<いる>” の続きでもある。自動詞、他動詞の区別の判断方として<xxxている>、<xxxてある>を検討してみる。

A. (純)自動詞の場合

歩く

1)太郎が歩く。 - 未来も表わしてしまうが、中立的表現といえる。
2)太郎は歩く。 - 習慣、未来、意思を表わしてしまうが中立的表現ともいえる。
3)太郎が(は)歩いている。 - 英語の現在進行形の訳でもある。現在進行形を強めれば<太郎が(は)歩いているところだ>。また<すでに>とか<もう>を加えると英語の現在完了形の意になる。<太郎が(は)そこはもう歩いている>。やや微妙だがさらに<太郎がもう歩いている>は<太郎がもう歩き始めている>の意にもなりこれは一種の現在完了、あるいは一種の現在進行形ともいえる。
4)太郎が(は)歩いてある。 - これも<すでに>とか<もう>を加えると英語の現在完了形の意になる。<太郎が(はそこはもう)歩いてある>。

寝る、眠る

1)花子が寝る(眠る)。 - 未来を表わしてしまうが、中立的表現ともいえる。
2)花子は寝る(眠る)。 - 習慣、未来、意思を表わしてしまうが、中立的表現ともいえる。
3)花子が(は)寝ている(眠っている)。 - 英語の現在進行形の訳でもあるが、状態を表わす現在形と解釈することも出来る。また<花子はきのう十分寝ている>である種の現在完了を表わす。
<もう>とか<すでに>をくわえて<花子はもう(すでに)寝ている>でまた別の種に現在完了を表わす。<もう寝始めている>は変な日本語だが<もう眠り始めている>は可能で<赤ん坊はもう眠り始めている>はおかしくない。これは<寝る>が短時間の行為(起きている状態から寝ている状態への変化ととらえる)なのにたいして<眠る>は時間的に継続する行為だ。
4)花子が(は)寝てある(眠ってある)。 - ダメとはいえない。<花子はきのう十分寝てある>でこれもである種の現在完了を表わす。<花子はもう(すでに)寝てある>は基本的にダメ。


B. 他動詞の場合

読む-他動詞

1)太郎が本を読む。 - 未来を表わしてしまうが、中立的表現ともいえる。
2)太郎は本を読む。 - 習慣、未来、意思を表わしてしまうが、中立的表現ともいえる。
3)太郎が(は)本を読んでいる。 - 英語の現在進行形の訳でもある。<すでに>とか<もう>を加えると英語の現在完了形の意になる。<太郎はもうその本を読んでいる>。
4)太郎が(は)本を読んである。 - 英語の現在進行形の意はない。<すでに>とか<もう>を加えると英語の現在完了形の意になる。<太郎はもうその本を読んである>。<もうその本を読んでいる>と<もうその本を読んである>との違いは微妙だ。ただ<もうその本を読んでいる>は<もう読み始めている>の意にもなるが<もうその本を読んである>はあくまで完了の意だ。

本を主語とした受身形の場合。

5)本は読まれている。 - 基本的には現在形だが、現在完了ともとれ、<すでに>を加えて<すでに本は読まれている>とすると、現在完了の意が強まる。
6) 本は読まれてある。 - これは基本的にダメだが、強いて意味をさぐれば<(すでに)読まれてある>で英語の現在完了の意味がある。

食べる-他動詞

1)花子が(は)朝食を食べる。
2)花子が(は)朝食を食べている。 
3)花子が(は)朝食を食べてある。

大体<読む>と同じだが、日本語では受身形の<朝食は食べられている>、<朝食は食べられてある>とはあまり言わない。これも<もう朝食を食べている>が<食べ終わっている>と<食べ始めている>の意になるのに対して<もう朝食を食べてある>は完了の意だけだ。

盗む-他動詞

1)次郎が金を盗む。  - 未来を表わしてしまうが、中立的表現ともいえる。
2)次郎は金を盗む。  - 習慣、未来、意思を表わしてしまうが、中立的表現ともいえる。
3)次郎が(は)金をんでいる。 - 英語の現在進行形の訳でもあるが、それよりも現在完了の意の方が普通だ。<すでに>とか<もう>を加えれば完了の意は強まる。<次郎が(は)すでに金をんでいる>。<すでに金をんでいる>が<もう盗み始めている>の意になりにくい。これは<盗むが>普通短時間の行為で有るのに対して<読む>や<食べる>は時間的にやや継続的な行為だからだろう。ただし<盗み>が習慣化していく過程を述べているのであれば<もう盗み始めている>の意は可能だ。
4)次郎が(は)金をんである。- これは現在進行形の意はなく、現在完了の意か状態を表わす現在形と解釈するするのが普通。


C. 自動詞-他動詞ペアの場合。(注)

落ちる - 落とす

落ちる(自動詞)

1)木の葉落ちる。 - 未来を表わしてしまうが中立的表現ともいえる。 <木の葉落ちてくる>とすると未来が強まる。2)木の葉落ちる。 - 習慣、自然現象、自然現象、因果関係を表わす。
3)木の葉が落ちている。 - 状態を表わす現在形と解釈するのが普通。
4)木の葉が落ちてある。 - ほぼダメ。
では現在進行形はどう言うかというと、
5)木の葉が落ちてきている。木の葉が落ちつつある。
では現在完了はどう言うかというと、
6) 木の葉が落ちてきた。現在が意識されている。これは過去形の<木の葉が落ちた>とは違う。

落とす(他動詞)

1)三郎が木の葉を落とす。 - 未来を表わしてしまうが、中立的表現ともいえる。
2)三郎は木の葉を落とす。 - 習慣、未来、意志をを表わしてしまうが、中立的表現ともいえる。
3)三郎が(は)葉を落としている。 - 英語の現在進行形の訳でもある。また現在完了形とも解釈できる。<三郎が(は)もう葉を落としている>。目はやや過去に向いている。<もう落とし始めている>の意にはなりにくい。
4))三郎が(は)木の葉を落としてある。 - 英語の現在完了形の訳と解釈できる。ただし現在に目はどちらかというと現在に向いている。

木の葉を主語とした受身形の場合。

5)木の葉が(は)落とされている。 - 基本的には状態を表わす現在形と解釈するのが普通。現在形だが、現在完了ともとれ、<すでに>を加えて<木の葉が(は)すでに落とされている>とすると、現在完了の意が強まる。
6) 木の葉が(は)落とされてある。 - あまりこうは言わないが<木の葉が(は)すでに落とされてある>で現在完了の意になる。

生まれる - 生む

生まれる(自動詞)

1)花子の子が生まれる。 - 未来を表わしてしまうが中立的表現ともいえる。<花子に子が生まれる>の方が日本語らしい。
2)花子の子が生まれている。 - 状態を表わす現在形と解釈するのが普通。
3)花子の子が生まれてある。 - ダメ
では現在進行形はどう言うかというと、
4)花子の子が生まれているところだ、花子の子が生まれつつある、だがまずこうは言わない。
では現在完了はどう言うかというと、
5) 花子の子が生まれている。これは上記の<状態を表わす現在形>と同じ。< 花子の子が生まれた>は過去。これも日本語では花子に子が生まれている>、<花子に子が生まれた>の方が日本語らしい。

生む (他動詞)

1)花子が子を生む。 - 未来を表わしてしまうが、中立的表現ともいえる。
2)花子は子を生む。 - 未来、習慣、または意思を表わしてしまうが、中立的表現ともいえる。
3)花子は子を生んでいる。 - 現在進行形とも取れるが、むしろ現在完了だ。正確な現在進行形は<花子は子を生んでいるところだ>。<花子は子を生みつつある>もダメではない。
4)花子は子を生んである。 - あまりこうは言わないが、<すでに>を加えて<花子はすでに子を生んである>現在完了だ。

以上を見ると(もっと例を検討すべきか-今後の課題)、

(純)自動詞<歩く>、<寝る(眠る>

+<いる>の場合

歩いている
寝ている
眠っている

は現在進行形、または状態を表わす現在形。また<もう>とか<すでに>を加えると現在完了の意になる。<もう xxx 終えている>。さらには<もう xxx 始めている>の意にもなる。

もう(すでに)歩いている
もう(すでに)寝ている
もう(すでに)眠っている

 +<ある>の場合

歩いてある
寝てある
眠ってある

は現在進行形、または状態を表わす現在形にはならない。 <もう>とか<すでに>を加えると現在完了の意になり、<もう xxx 終えてある>の意に近くなる。

もう(すでに)歩いてある
もう(すでに)寝てある
もう(すでに)眠ってある

純他動詞<読む>、<食べる>、<盗む>の場合

 +<いる>の場合 

読んでいる
食べている
盗んでいる

は現在進行形。また<もう>とか<すでに>を加えると現在完了の意になる。<もう xxx 終えている>。さらには<もう xxx 始めている>の意にもなる。

 +<ある>の場合

読んである
食べてある
盗んである
は現在進行形、または状態を表わす現在形にはならない。 <もう>とか<すでに>を加えると現在完了の意になり、<もう xxx 終えてある>の意に近くなる。<もう xxx 始めている>の意にはならない。

もう(すでに)読んである
もう(すでに)食べてある
もう(すでに)盗んでいる

自動詞-他動詞ペアの場合

自動詞<落ちる>、<生まれる>

+<いる>

落ちている
生まれている

は現在進行形の意にならないで、状態を表わす現在形になる。 <もう>とか<すでに>を加えると現在完了の意になり、<もう xxx 終えてある>の意に近くなる。<もう xxx 始めている>の意にはならない。

+<ある>

落ちてある
生まれてある

基本的にナンセンス。

自動詞<落とす>、<生む>の場合

+いる

落としている
生んでいる

は現在進行形の意が可能。また<もう>とか<すでに>を加えると現在完了の意になる。<もう xxx 終えている>。さらにはばあいによっては<もう xxx 始めている>の意にもなる。

もう(すでに)落としている
もう(すでに)生んでいる

+ある

落としてある
生んである

は現在進行形にはならなず、状態を表わす現在形にる。 <もう>とか<すでに>を加えると現在完了の意になり、<もう xxx 終えてある>の意に近くなる。<もう xxx 始めている>の意にはならない。

もう(すでに)落としてある
もう(すでに)生んである

さらにまとめてみると

自動詞+<いる>の場合

歩いている
寝ている
眠っている
-‐--
落ちている
生まれている

自動詞+<ある>の場合

歩いてある
寝てある
眠ってある
-‐--
落ちてある
生まれてある

他動詞 +<いる>の場合

読んでいる
食べている
盗んでいる
----
落としている
生んでいる

他動詞 +<ある>の場合

読んである
食べてある
盗んである
----
落としてある
生んである

となる。

特徴的なのは

1.自動詞-他動詞ペア動詞の自動詞<落ちる>、<生まれる>

+<いる>

落ちている
生まれている

は現在進行形の意にならないで、状態を表わす現在形になる。

一方(純)自動詞の<歩く>、<寝る>、<眠る>は

+<いる>の場合

歩いている
寝ている
眠っている

は現在進行形、または状態を表わす現在形。

同じ自動詞でも違いがある。

+<ある>はどうか?

他動詞では

純他動詞+<ある>の場合

読んである
食べてある
盗んである

自動詞-他動詞ペアの他動詞+<ある>の場合の
 
落としてある
生んである

以上は現在進行形の意はなく、現在完了の意か状態を表わす現在形と解釈するするのが普通。

自動詞-他動詞ペアの自動詞+<ある>の場合の

落ちてある
生まれてある

がダメ(ナンセンス)。

一方(純)自動詞の<歩く>、<寝る>、<眠る>は

+<ある>の場合

歩いてある
寝てある
眠ってある

は現在進行形、または状態を表わす現在形にはならない。 <もう>とか<すでに>を加えると現在完了の意になり、<もう xxx 終えてある>の意に近くなる。

同じ自動詞でも違いがある。

純他動詞<読む>、<食べる>、<盗む>の<+<ある>>の場合も

読んである
食べてある
盗んである

 自動詞-他動詞ペアの他動詞+<ある>の場合の
 
落としてある
生んである

以上は現在進行形、または状態を表わす現在形にはならない。 <もう>とか<すでに>を加えると現在完了の意になり、<もう xxx 終えてある>の意に近くなる。<もう xxx 始めている>の意にはならない。

で<+<ある>>に関しては( 純)自動詞の<歩く>、<寝る>、<眠る>の<+<ある>>の場合とにかよっている。

特に、

落ちてある
生まれてある

がダメ(ナンセンス)。なぜか? 

この問いに対する回答は難しい。発想を変えて次のように考えたらどうか?

(純)自動詞の<歩く>、<寝る>、<眠る>を他動詞としてしまうのだ。自動詞-他動詞ペアの場合の自動詞はペア相手の他動詞の存在で自動詞度合いが強い。一方(純)自動詞は自動詞度合いは弱い、と考えたらどうか。

(純)自動詞と自動詞-他動詞ペアの動詞をもう少し検討してみる。

(純)自動詞

動く

動いている - 現在進行形の訳でもある。現在進行形を強めれば<動いていているところだ>。
もう動いている - 現在完了形の意になる。<もう動き始めている>の意にもあなる。
動いてある - ほぼダメ。使役形の<動かす>は<動かしてある>と言える。<動く>、<動かす>をペアと見ることもできる。この場合<動く>の(純)自動詞性が弱まる。

死ぬ

死んでいる - 現在進行形にはなりにくい。状態を表わす現在形と解釈する。
もう死んでいる - 状態を表わす現在形、現在完了形の一種とも解釈できる。
死んである - ほぼダメ。使役形の<死なす>は<死してある>と言える。だが普通は<殺す>、<殺して>あるだ。<死ぬ>は純大和言葉ではないだろう。漢語の<死(し)>+<ぬ>(古語の完了の助動詞<ぬ>、<ぬる>)。

自動詞-他動詞ペア

上がる - 上げる
上がっている - 上げている
上がってある(ダメ) - 上げてある

開(あ)く - 開(あ)ける
開いている - 開けている
開いてある(ダメ) - 開けてある。

埋まる - 埋める  (まるーめる動詞)
埋まっている - 埋めている
埋まってある(ダメ) - 埋めてある

折れる - 折る
折れている - 折っている
折れてある(ダメ) - 折ってある

消える - 消す
消えている - 消している
消えてある(ダメ) -  消してある

下がる - 下げる
下がっている - 下げている
下がってある(ダメ) - 下げてある

立つ - 立てる
立っている - 立てている
たってある(ダメ) - 立ててある

通る - 通す
通っている - 通している
通ってある(ダメ) - 通してある

ぬれる - ぬらす
ぬれている - ぬらしている
ねれてある(ダメ) - ぬらしてある

よごれる - よごす
よごれている - よごしている
よごれてある(だめ) - よごしてある

以上の例では下線をつけた自動詞

上がっている
下がっている
通っている 

が現在進行形または状態を表わす現在形の意になるが、ほかは<落ちる>と同じく基本的に現在進行形の意はなく、状態を表わす現在形の意だけだ。<上がる>、<下がる>、<通る>の例外があるにで、これは弱い文法法則性と言える。<上がる>、<下がる>、<通る>は(純)自動詞性が少しあるとも言える。ところで肝心なのは<自動詞+てある>がすべて<ダメ>なことだ。これは強い文法法則性と言える。

ここで<xx x なる>、<xxx する>を考えてみる。

<xx x なる>は自動詞、あるいは自動詞をつくる。

形容詞(名詞、体言) + なる

赤くなる
寒くなる
大きくなる
横になる

<xx x する>は他動詞、あるいは他動詞をつくる。

赤くする
寒くする
大きくする
横にする

<xx x なる>、<xxx する>に<いる>、<ある>を付けるてみる。

赤くなっている
赤くなってある(ダメ)
横になっている
横になってある(ダメ)

赤くしている
赤くしてある
横にしている
横にしてある

以上の例は<xx x なる>形の自動詞は<xxx なってある>がダメなのだ。

したがって上記の法則が当てはまる。


<いる> と<ある>の違いは前回のポスト ”日本語の時制と<ある>、<いる>” で少し書いた。<いる>が人、動物の存在、<ある>は人、動物以外の事物(モノ、コト)の存在と見られがちだが、これは表面的で、<いる>は一時的な存在、<ある>は根本的な存在と見るのが深い見方だ。

継続検討予定

追記

(純)自動詞の代表<行く>と<来る>を抜かしては片手落ちなので上記の方法に準じて見ておく。これは別のポストでも検討した。

<行く>

1)太郎が行く。 - 未来も表わしてしまうが、中立的表現といえる。
2)太郎は行く。 - 習慣、未来、意思を表わしてしまうが中立的表現ともいえる。
3) 太郎が(は)(学校に、会社に)行っている。 - 英語の現在進行形の意にならない。強いて現在進行形の意を出そうとすれば<太郎が(は)(学校、会社に)に行っているところだ>になりそうだが、これでもまだイマイチ。と言うのは、<もう行ってしまっている、さらには到着してしまっている>意味にもなるからだ。<太郎が(は)向かっているところだ>と別の動詞<向かう>が必要のようだ。また<すでに>とか<もう>を 加えると英語の現在完了形の意になる。<太郎が(は)そこはもう行っている>。やや微妙だが<太郎がもう行っている>は<太郎がもう行き始めている>の意 にもなりこれは一種の現在完了。
4)太郎が(は)行ってある。 - これはダメのようだ。<すでに>とか<もう>を加えると<太郎が(は)(そこには)もう行ってある>となるが、<太郎が(は)(そこには)もう行っている>と比べるとおかしい。

<来る >

1)太郎が来る。 - 未来も表わしてしまうが、中立的表現といえる。
2)太郎は来る。 - 習慣、未来、意思を表わしてしまうが中立的表現ともいえる。
3) 太郎が(は)(花子の家に)来ている。 - 英語の現在進行形の意にならない。強いて現在進行形の意を出そうとすれば<太郎が(は)(花子の家に)に来ているところだ>になりそうだが、これもダメ。と言うのは、<もう来てしまっている、さらには到着してしまっている>意味になるからだ。これも<太郎が(は)(花子の家に)向かっているところだ>と別の動詞<向かう>が必要のようだ。
4)太郎が(は)来てある。 これはダメ。

(注)(*)”自動詞、他動詞-6 日本語の他動詞、自動詞の作られ方” から。

英語には自動詞ー他動詞がペアになっている動詞がいくつかある。

to lie (横たわる) -  to lay(横たえる、置く)
to rise(上がる)  -  to raise(上げる) 
ro sit (すわる) -  to set (すわらせる、置く)

一方日本語では自動詞、他動詞が組みになっている動詞ペアがやたらたくさんあり分析が必要。分析作業は相当骨が折れる。とにかくやってみる。

自動詞 - 他動詞

上がる - 上げる
開(あ)く - 開ける。 開(あ)かす、、明(あ)かす(to disclose)、空(あ)かす(to empty)の<あかす>もある。<開(あ)かす>は<開く>の未然形<開か>+す。
当たる - 当てる。
現(あら)われる - 現わす。 <現(あら)われる>の古語形は<現わる>。ただし<現わる>の未然形は<現われ>。
表(あら)われる - 表わす。
生きる - 生かす。 <生きる>の未然形は<生きれ>。<生きる>の古語形は<生く>だが未然形は<生き>。<生かす>に比喩的な意味もある。
浮く - 浮かす。 <浮かす>は<浮く>の未然形<浮か>+す。
埋まる - 埋める
動く - 動かす。<動かす>は<動く>の未然形<動か>+す。
売れる - 売る。  <売れる>は<売る>の可能、自発。受身は<売られる>。
起きる - 起こす。<起きる>の未然形は<起きれ>。
興(起)こる - 興(起)こす。<興(起)こる>の未然形は<興(起)こら>。
落ちる - 落とす。<落ちる>の古語形は<落つ>。<落つ>の未然形は<落ち>。
折れる - 折る。<折れる>は<折る>の可能、自発。
終わる - 終える
かぶる(自/他) - かぶす。<帽子をかぶる>の<かぶる>は他動詞。<水がかぶる>の<かぶる>は自動詞。
枯れる - 枯らす。 古語は多分<枯る>。<枯らす>は<枯る>の未然形<枯ら>+す。
乾く - 乾かす。 <乾かす>は<乾く>の未然形<乾か>+す。
変わる、代わる、替わる (自/他)- 変える、 代える、替える。<かわる>、<かえる>はやっかいな動詞だ。
消える - 消す。<消える>の古語形は<消ゆ>。<消ゆ>の未然形は<消え(kie)>。<消え>+<す>(kie-su) --> <消す(ke-su)>は十分考えられる。
決まる - 決める
切れる - 切る。切らす。 <時間(資金)がきれる>の<切れる>は自動詞。<時間(資金)を切らす>というので<切らす>は他動詞。ただし<切れる>の未然形は<切れ>。
崩(くず)れる - 崩す。 <崩れる>の使役形は<崩れさす>。<崩す>の受身形は<崩される>。
焦げる - 焦がす
壊(こわ)れる - 壊す。 <壊れる>の使役形は<壊れさす>。<壊す>の受身形は<壊される>。
下がる - 下げる
絞まる - 絞める、閉まる - 閉める
過ぎる - 過ごす。 <一時間が過ぎる>の<過ぎる>は明らかに自動詞だが、 <一時を過ぎる>の<過ぎる>も<を>をとるが自動詞。<一時間を過ごす>の<過ごす>は他動詞。これはややこしい。別途検討予定。
住む -住まわす、住まわせる
済む - 済ます。 <済ます>は<済む>の未然形<済ま>+す。
澄む - 澄ます。 <澄ます>は<澄む>の未然形<澄ま>+す。
染まる - 染める
それる(そる) - そらす。 <そらす>は<そる>の未然形<そら>+す。
倒(たお)れる - 倒す。 <倒れる>の使役形は<倒れさす>。<倒す>の受身形は<倒される>。
立つ - 立てる (立たす)。<立たす>は<立つ>の未然形<立た>+す。
貯まる - 貯める
溜まる - 溜める
縮(ちぢ)む - 縮める。<縮まる>という自動詞もある。
掴(つか)まる-、掴む。 <つかまる>は<xx につかまる>と使うので自動詞が、動作としては<つかむ>とほぼ同じで他動詞的だ。また<掴む>も<捕まえる>も動作は似ている。
捕まる(*)-捕まえる。<捕まる>は意味としては<捕まえられる>で受身だ。
付く - 付ける。 (巻きつく-巻きつける、取り付く-取り付ける、etc)
つまる - つめる
通る - 通す
とどまる - とどめる
閉じる(自/他) - 閉ざす。 <閉じる> は<xxが閉じる>、<xxを閉じる>で自/他動動詞。
富む - 富ます。 <富ます>は<富む>(やや古語形)の未然形<富ま>+す。
止まる - 止める
泊まる - 泊める
鳴る - 鳴らす。<鳴らす>は<鳴る>の未然形<鳴ら>+す。
にごる - にごす。 <にごす>は比喩的ないいかたが主で、物理的な意味の他動詞は<にごらす>、<にごらせる>。
ぬれる - ぬらす。 古語は多分<ぬる>。<ぬらす>は<ぬる>の未然形<ぬら>+す。<xx は yy で(に)ぬれる>、<xx を yy で(に)ぬらす>という使い方だ。 <塗る>は関連語と思われるが他動詞で<塗れる>は可能、<塗られる>は受身、<塗らす>は使役。
残る - 残す
伸びる - 伸ばす
始まる - 始める
働く (自/他)  - 働かす。 <働かす>は<働く>の未然形<働か>+す。
はまる - はめる
冷える - 冷やす。<冷える>の古語形は<冷ゆ>。<冷ゆ>の未然形は<冷え>。<冷え>+<す>(hie-su) --> <冷やす(hiya-su)>は十分考えられる。
(ひっくり)返る - (ひっくり)返す。<(ひっくり)返らす>とも言う。
響く - 響かす。<響かす>は<響かす>の未然形<響か>+す。 
ふえる - ふやす。 <ふえる>の古語形は<ふゆ>。<ふゆ>の未然形は<ふえ>。<ふえ>+<す>(hue-su) --> <ふやす(huya-su)>は十分考えられる。
震える - 震わす。 関連語: 振る、 触れる、揮(ふる)う、篩(ふる)う)、ふる舞う(語源?)
ふくらむ - ふくらます。 <ふくらます>は<ふくらむ>の未然形<ふくらま>+す。
ぼける - ぼかす
向く - 向ける、向かす。 <向く>、<西を向く>とも<西に向く>ともいえるので、自動詞かつ他動詞。<向かす>は<向く>の未然形<向か>+す。
燃える - 燃やす。<燃える>の古語形は<燃ゆ>。<燃ゆ>の未然形は<燃え>。<燃>+<す>(moe-su) --> <もやす(moya-su)>は十分考えられる。
休まる - 休める。 <休む>
よごれる - よごす

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Tuesday, April 22, 2014

日本語の時制と<ある>、<いる>


以前のポスト”存在と認識の大動詞<ある>-在(あ)る、有(あ)る” で<ある>の大動詞たる所以(ゆえん)を深く考えて書いたつもりだが、<ある>とその姉妹語とも言うべき<いる>が日本語の時制で大活躍する。これは<ある>、<いる>が大動詞たるもう一つの所以だ。

日本語の時制と<ある>、<いる>の関連はどうか調べてみる。”存在と認識の大動詞<ある>-在(あ)る、有(あ)る” のポストを利用する。

英語では<to have>が現在完了、過去形の<had> が過去完了で活躍する。<to have>は時制関連以外では<持つ>の意もあるが、それ以上に<有る>の意で使われる。また存在に関連する<to be>は主に受身形を作るのに使われ、英語の教科書では<to go>、<to come>との組み合わせが例外的に受身形ではなく時制に関連する。これは、後で見るように(*)、日本語でも<行く>、<来る>は例外的なところがあり、<to go>、<to come>、<行く>、<来る>と言う動詞の特殊性によるようだ。


<ある>、<いる>との違い

<ある>、<いる>との違いは一般的に、またはごく簡単には、<ある>は人、動物以外の事物の存在、<いる>は人、動物の存在を表(あらわ)す、というものだろう。

机の上に本がある。
教室には机と椅子(いす)と黒板がある。
太郎の家の前に小さな公園がある。

机の上に蟻(あり)がいる。
教室には先生と生徒がいる。
太郎の家の前に花子がいる。

以上の例は<ある>は人、動物以外の事物の存在、<いる>は人、動物の存在を表(あらわ)す、というルールが適用でき<ある>、<いる>を交換すると、試してみればわかるが日本語として変になる。

さてそれでは次の例はどうか?

今太郎の家の前にパトカーがいる。- ごく特殊の場合以外<パトカーがある>とは言わない。

パトカーは動物以外の事物で人、動物ではない。パトカーの中に警官がいて、その警官を指している、とは考えられない。あくまでパトカーだ。

同じような例は

まだバスが停留所にいるから走っていこう。 これもこの<バスが停留所にあるから>とは言わない。

パトカーもバスも元来(がんらい)動くもので、動物とみなしているという解釈はどうか。半分は当たっている。

<パトカーは警察の車庫にある>はおかしくない。また<バスはバス会社の車庫にある>もおかしくない。むしろ<バスはバス会社の車庫にいる>がおかしい。

ここで辞書の助けをかりる。 手もと辞書(三省堂)の<いる>の解説を見てみる。

<いる>の解説

(人、動物が)ある時間その場所を占める状態がみとめられる。

続いていくつかの例をあげており、最後の方に<バスがいる(一時的にとまっている)>の例があるが、バスが人、動物でないのに<いる>が使われている説明は特にない。もっとも<人、動物が>は括弧の中にある。また<その場所>より<ある場所>の方がいい。だが例文のカッコ内の<一時的にとまっている>に注目しよう。

パトカーもバスも元来(がんらい)動くものが<止まっている>のだ。この<止まっている>の<止まって>を省略した表現が

パトカーがいる
バスがいる

となる。この解釈はかなり説得力がある。しかし<止まって>を省略した表現、というのは文法解説上あまりいい解釈ではない。というのは気がつきにくいが<止まって>、特に<て>に暗黙の(明示されいない、implicit)意味があるからだ。<xxx ている>は一つの熟語だ。あとで見るように<xxx ている>にはいくつか違った意味がある。それでは<いる>自体に<人、動物>と<それ以外の事物>以外に<ある>との違いはないか。

これをこの辞書の<ある>の解説と比べてみる。<ある>には存在を示す<在る>といわゆる<所有>を示す<有る>があるが、日本語では<ある>の一つ。<有る>の解説は


<有る>

1)見聞きしたり、感じたり、考えたり、などすることによって、その物事がみとめられる(状態を保つ)
2)そなわっていることが認められる((状態を保つ)
3)おこなわれる(はずだ)


となっている。

一方<在る>の解説は

そういう位置(状況、環境条件)において存在することが認められる(ことを表わす)。


まあ堂々巡り的な解説だが<在る>は存在を示す、でいいだろう。これも<そういう>よりも<ある>のほうがいい。

これを<いる>の解説

(人、動物が)ある時間その場所を占める状態がみとめられる。

と比べてみる。

辞書の<いる>の解説から、<いる>は<ある時間その場所を占める状態>は<一時的な存在>を示すといえないだろうか。英語で言えば presence 。これに対し<在る>は根本的な存在を示す。英語で言えば existence 。<一時的な存在>であれば、人でも動物でもバスでもかまわないのではないか。

<人がいる>は人の根本的な存在ではなく人の<一時的な存在>を示している。では<人が在る>、<人は在る>が人の根本的な存在を示しているかと言うとそうでもない。ただし<xxx をする(した)人がある>とは言う。<xxx をする(した)人がいる>ともいう。この場合<する人がある>が人の根本的な存在、<する人がいる>が<一時的な存在>を示しているともいえない。大きな問題だが、この結論はとりあえず棚上げにしておく。後日再検討予定。

ここではまず<xxx ている>という表現の<て>について考えてみる。<て>は同じ辞書の解説によると、

1)一連の動作が行われることをあらわす。
2)どんな理由、原因でその動作が行われたかを示す。
3)どんな状態で行われたかを示す。

<接続助詞>としている


1)一連の動作が行われることをあらわす

太郎は朝起きて、顔を洗って、朝食を食べて、学校に行って、勉強して、運動をして、お昼を食べて、家に帰って、遊んで、夕食を食べて、テレビを見て、寝る(寝た)。

この例は<一連の動作>を示しており前後の動作(行為)を関係づけている。前後があるので時制がからんでいることに注意しておこう。<朝食を食べて、学校に行く>と<学校に行って、朝食を食べる>では意味が違う。それはまあいいとして、この<て>の関係づけの働きから<て>が接続助詞に分類されているのだろう。

前後関係がはっきりしない場合もある。

テレビを見て食事をする。

これは<テレビを見ながら食事をする>の意とも<テレビを見てから食事をする>の意ともとれる。

横になってテレビを見る。

これも<横になってからテレビを見る>の意とも<横になりながらテレビを見る>の意ともとれる。ただしこの場合<横になって、起きて、テレビを見る>の意にはなりにくく<横になりながらテレビを見る>とほぼ同じ意があり<横になってテレビを見る>と言うのが普通だろう。

歩いてくる。

これは<歩いてから来る>の意にはならず<歩きながらくる>または<徒歩で来る>の意だ。 大和言葉を使えば<歩きで来る>だが、あまりこうは言わない。

<歩きながらくる>と<歩きで来る>は違う。<歩きで来る>は<歩く>行為と<来る>行為が並行しているのに対し<歩きで来る>の<歩きで>は<来る>行為の方法、仕方を示しているのだ。これは<て>の三番目の意味、

3)どんな状態で行われたかを示す。

と言えるだろう。これは時制との関連は薄い。<横になってテレビを見る>は<横になってからテレビを見る>のか<テレビを見ている途中で横のなる>かあまり深く詮索しない発話だ。<歩いてくる>は<歩く>のと<来る>時間上の前後関係は判別しがたい。<横になってテレビを見る>も時間的前後関係の<横になってからテレビを見る>の意よりも<どんな状態で行われたかを示す>と見るのが普通だろう。

 ここで<て>と<で>のこの用法に注目しよう。<横になってテレビを見る>も<横になった姿勢テレビを見る>とか<横臥(の姿勢)テレビを見る>とも言える。<て>は動詞の連用形につくが<で>は名詞(体言>につく。順序がずれたが辞書では<て>にはもう一つ

2)どんな理由、原因でその動作が行われたかを示す。

の意がある。 これは明らかに時間軸上の前後関係がある。大げさに言えば自然界、物理学の因果律だ。

ところでこの辞書では<今日は日曜である>の<で>を(断定の)助動詞<だ>の連用形としている。これにならって<て>を(過 去、完了の)助動詞<た>の連用形とみなしたらどうか。これで<て>に時制上の意味が出てくる。助動詞<た>は連用形に付き、<て>は<た>の連用形、そ して<いる>、<ある>は終止形だ。これで、

<xxx(連用形)+ て + いる、ある>となる。 そして<て>は接続助詞としての<て>では見落としがちだが過去、完了の意味を含んでいるのだ。

この見落としの原因の一つに英語の現在進行形とその和訳がある。現在進行形はどちらかと言うと英語の特殊時制で、他言語では現在形で間に合わせている場合が多い。具体例はここでは省略。

Taro is studying now. 太郎は今勉強している。 または、太郎は今勉強しているところだ。

現在を表わす<いま>を除いてみる。

Taro is studying. 太郎は勉強している。 または、太郎は勉強しているところだ。

英語は依然として現在進行形。日本語は<太郎は勉強しているところだ>は現在進行形の意味があるが、<太郎は勉強している>は少し違う。この<太郎は勉強している>に<もう>と<すでに>を加えてみる。

太郎はもう勉強している。 
太郎はすでに勉強している。

この二つの例は少なくと下記の違った意味がある。

1.太郎はもう勉強を始めている。そして今も勉強している。
2.太郎はもう勉強を始めている。だが今勉強しているとは限らない。
3.太郎はもう勉強をし終えている(し終わっている)。したがって、今は勉強していない。

<もう>を<すでに>で入れ替えてもほぼ同じだ。

英語の Taro is already studying.はどうか? これは間違い(こうは言わない)か、または

1.太郎はもう勉強を始めている。そして今も勉強している、の意だろう。

<いま>、<もう>、<すでに>、<now>、<already>にごまかされてはいけない。あくまで<て + いる>と<be xxx ing>が文法上重要なところだ。

<太郎は勉強している> は<Taro is studying.>と明らかに時制がちがう。言い換えれば、<太郎は勉強している>は現在進行形ではないのだ。しかしながら、日本の学校では日本語文法よりもはるかに多くの時間を英語文法の学習に使うので、<Taro is studying.>の一般的な和訳<太郎は勉強している>、さらには一般的化して<xxx (し)ている>が現在進行形と考えてしまうのだ。しかしながら、日常言語生活上では、問題なく、無意識で

<太郎はもう勉強している>を

1.太郎はもう勉強を始めている。そして今も勉強している。
2.太郎はもう勉強を始めている。だが今勉強しているとは限らない。
3.太郎はもう勉強をし終えている(し終わっている)。したがって、今は勉強していない。

と使いわけ、聞き分けている。この三例は明らかに英語でいえば現在完了の意味だ。そしてこの現在完了の意味は<て>からきている。ところで、見落としがちな間違いだが、<終える>、<終えいいる>は完了だが、<始める>、<始めている>は完了ではないじゃないか、と言う人がいるかも知れない。だが、文法上は<始める>、<始めている>も完了と見るのが正しい。<始める>、<始めている>の意味に惑わされてはいけない。次のように解釈する。

<終える>も<始める>もそれまで状態とは違うことが発生する、いいかえれば、変化がある、ということだ。

終える前の状態 (何かをしている) - 終える (この何かはもうしていない) - 変化
始める前の状態 (何かはしていない) - 始める (何かをしている) - 変化

<終える>、<始める>、いずれにしても変化がおこった、、おこっている、のだ。 英文法にとらわれるが<変化がおこった>は過去だが、その影響がある場合は現在完了。<変化がおこっている>は現在進行形の意味のほかに<変化がおこって、その状態が今も続いている>の意がありで現在完了だ。したがって、これまた繰り返しになるが、

現在進行形の意味のほかに

1.太郎は勉強を始めている。そして今も勉強している。
2.太郎は勉強を始めている。だが今勉強しているとは限らない。
3.太郎は勉強をし終えている(し終わっている)。したがって、今は勉強していない。

の現在完了形の意味がある。

ここで注意しないといけないのは

太郎は勉強している。と
太郎が勉強している。

の違いだ。
1.太郎勉強を始めている。そして今も勉強している。
2.太郎勉強を始めている。だが今勉強しているとは限らない。
3.太郎勉強をし終えている(し終わっている)。したがって、今は勉強していない。

とは言えないことだ。<太郎が勉強している>は英語の<Taro is studying.>の意味に近い。<近い>が同じではない。文が簡単なので見落としてしまうが、これは大きな問題で検討してみる価値がある。

さて<いる>と<ある>の違いだが、

<太郎は勉強してある>はどうか。これは明らかに現在進行形ではない。現在完了形の<太郎は勉強している>の意に近いが、同じではない。どこが違う?これも気がつきにくいが<太郎は勉強してある>は<勉強がしてある>のであって<太郎がある>わけではない。一方<太郎は勉強している>は<太郎がしている>のだ。<xxx ている>の場合の主語は<太郎>、<xxx てある>の場合の主語は<勉強>なのだ。これははじめの方で述べた

<ある>は人、動物以外の事物の存在、<いる>は人、動物の存在を表(あらわ)す、というルール、が当てはまる。

<太郎は勉強してある>の<太郎>は<象は鼻が長い>の<象>とおなじで主語ではなくいわゆる主題なのだ。くどくいえば<太郎勉強してある>なのだ。

<太郎は勉強している>と<太郎が勉強している>の違いはこの辺にある。

<xxx てある>の場合は<xxx ている>と違って現在進行形の意はなく常に現在完了の意だ。<xxx てあるところだ>とはまず言わないが、<xxx てあるところだ>として現在進行形の意にはならない。<いる>と<ところ>は相性がいいが、<ある>と<ところ>は相性が悪いのだ。<相性がいい、悪い>では文法の説明にならないので、 日本語で大活躍する<ところ>の意味を示しておく。何度も使わせもらうが手もとの辞書(三省堂)の解説は次の通り。

1)そこに何かが存在したり、そこで何かが行われたりする限られた空間。
2)人間の生活とかかわり合いがある一定の土地(地域)。
3)事物や事物の問題となる部分(範囲)。
4)時間的、空間的な広がりの中で、他から切り離してとらえた特定の場面(状況)。

<ところ>=場所ではない。特に4番目の解説は意味深長だ。

以上の四つの解説で共通しているのは<限られた>、<一定の>、 <問題となる>、<他から切り離してとらえた特定の場面>で示されているように、<ところ>は限定された場所ということだ。sptt Notes on Grammar では何度も取り上げている<定><不定>の文法上の区別がここでも出てくる。<ところ>が中国語語法の借り受けだが<ところ>が関係代名詞として使われるのは4番目の解説<時間的、空間的な広がりの中で、他から切り離してとらえた特定の場面>の働きがあるからだ。また、<時間的、空間的な広がりの中で、他から切り離してとらえた特定の場面>は<いる>の<一時的な存在>とも関連してくる。<ある>は<いる>と違って永遠とまでは言えなくても<根本的な存在>を示す。<根本的な存在>と<時間的、空間的な広がりの中で、他から切り離してとらえた特定の場面>とは結びつきにくい、つまりは相性が悪いのだ。

これ以外に別のポス ト”おもしろい<ところ>” を参照。


(*) "日本語の時制 (テンス)、アスペクト " から

<行く>、<来る>は具合が悪く
太郎は(いま)行っている。(ダメ) ---> 次郎は(いま)向かっている(ところだ)。
次郎は(いま)来ている。(ダメ) ---> 次郎は(いま)来るところだ。 次郎は(いま)来ているところだ。 (ダメ)
花子は(いま)いる。 花子は(いま)いるところだ。 英語で I am being とはいわない。

sptt


参考1) 日本語の時制 (テンス)、アスペクト

A. 日本語の時制 (テンス)

日本語の時制 (テンス)の解説は多分に英文法の影響を受けている。元来日本語では文法上時制はあまり意識されていない。時制を<時間に関連した表現>とすれば、複合動詞(動詞と動詞の組み合わせ)を除き日本語での文法上の動詞の時制は次の二つ。

1. 現在形 - 動詞は終止形
2. 過去形 - 動詞連用形 + <過去>を表す助動詞<た>。

下記に述べるように中立(単純)未来は動詞の現在形がかねる。

1. 現在形
現在形はけっこう難しい。現在形は次の二次的時制(sub-tenses)を表す。

1)中立あるいは基本叙述。説明、解説を表す。
太郎は働く。 美代子は見る。次郎は来る。 花子はいる。
以上は人が主語になっているが、人間世界以外の自然界で起こっていること、 物理や化学の説明、解説を表す場合も現在形が多い。論理学や数学はさらに現在形が多いはずだ。
2)継続的、断続的行為、動作、連続的状態をを表す。
太郎は(毎日)働く。 美代子は(毎日)見る。次郎は(毎日)来る。 花子は(朝からずっと)いる。
3)未来を表す。
太郎は(あした)働く。 美代子は(あした)見る。次郎は(あした)来る。 花子は(午後)いる。

(注) 中立叙述とは英語の<to 不定詞>に相当するが、英語の<to 不定詞>は叙述文にはならない。動詞の終止形は中立叙述で会話内容、文脈、または修飾ごを伴って継続的、断続的行為、動作、とりあえず一回きりの行為、動作、連続的状態、さらに未来を示す。

英文法では<現在進行形>というのがあるが、日本語では次のように表す。あとでアスペクトについて検討するが、<進行形>は現在、過去、未来でも<進行形>を形式上、意味上たもつのでアスペクトと見なしたほうが合理的だ。

太郎は(いま)働いている。 太郎は(いま)働いているるところだ。
美代子は(いま)見ている。  美代子は(いま)見ているところだ。
<行く>、<来る>は具合が悪く
太郎は(いま)行っている。(ダメ) ---> 次郎は(いま)向かっている(ところだ)。
次郎は(いま)来ている。(ダメ) ---> 次郎は(いま)来るところだ。 次郎は(いま)来ているところだ。 (ダメ)
花子は(いま)いる。 花子は(いま)いるところだ。 英語で Hanako is being とはいわない。

一般には、

動詞連用形 て + いる
動詞連用形 て + いる + ところ + だ

といえそうだ。<ところ>の表現機能のひとつだ。 

<次郎は(いま)来ている>、<次郎は(いま)来るところだ>、<次郎は(いま)来ているところだ>はやや曖昧だ。

次郎は(いま)来ている。 - こうは言えない。 <次郎は(いま)来ている>は<もう来てしっまている>のだ。
次郎は(いま)来るところだ。 - Jiro is about to come の意味にもなる。
次郎は(いま)来ているところだ。- Jiro has already come and is staying (here) の意味になる。
Jiro is now coming は<次郎は今こちらにむかっているところだ>とかなり長くなる。

これは<来る>という動詞の意味(移動)が関係している。意味論になるのでここでは深入りしない。

ところで英語の<be about to>は<差し迫った未来>とでもいえよう。一般には、

動詞連体形 + ところ + だ

で表せる。

太郎は(いま)働くところだ。
美代子は(いま)見るところだ。
次郎は(いま)来るところだ。
ただし
花子は(いま)いるところだ。 - こうは言えない。
 これは<いる>という動詞の意味(存在)が関係いしている。これも意味論になるのでここでは深入りしない。これも<ところ>の表現機能のひとつだ。 


2. 過去形 - 動詞連用形 + 完了を表す助動詞<た>

ここでは<過去>は時制、<完了>は時制ではなくアスペクトと見なして話をすすめる。

日本語の過去形は英語で言う<過去形>(一応<現在から切りはなされた過去とする>)にほぼ相当する。

太郎は働いた。
美代子は見た。
次郎は来た。
花子はいた。

上記の時間的な意味はいずれも <現在から切りはなされた過去>といえる。

英語の現在完了形 (to have + 過去分詞)は厄介だ。主に次の三つの意味を含んでいる。

1)過去から現在まで継続f、断続していることを表す
2)過去におこったが現在にも関連していることを表す
3)過去の経験を表す

厄介にしている原因は<完了>を時制に組み入れているからだろう。

1)過去から現在まで継続、断続していることを表す

日本語では

(ずっと) 動詞連用形 て + きた
(ずっと) 動詞連用形 て + きて + いる (やや翻訳調)

太郎は(ずっと)働いてきた。
美代子は(ずっと)見てきた。

次郎は来た。 次郎は(ずっと)来てきた。(ダメ)
次郎は(ずっと)来ている。(現在完了)
次郎は(ずっと)来ていた。(過去完了)

花子はいた。 花子は(ずっと)いてきた。(ダメ)
花子は(ずっと)いる。(現在完了)
花子は(ずっと)いた。(過去完了)

2)過去におこったが現在にも関連していることを表す

この解説はむずかしい。

 英語のこの意味での 現在完了形の使用頻度は英語初級者の日本人の使用頻度よりはるかに多い。<現在から切りはなされた過去>というが、<切りはなされ>かた の具合や程度はさまざまで、発話者が<現在と関連ある過去>と判断すれば <have + 過去分詞>を使えるようだ。

I did it.
I have already done it.

日 本語では<xx (し)ている>が進行アスペクトを暗示(to implicit)しているのに対し<xx (し)てある>という表現があり、これは現在と強く結びついた完了を暗示している。<いる、i-ru>と<ある、a-ru>の一字の違いに過ぎないが、意 味するところは大いに異なる。

I have done it. は場合によっては<わたしはもうした、すませている>でなく<私はもうしてある>とも訳せる。

3)過去の経験を表す
動詞連用形 + た + こと + が + ある

太郎は働いたことがある。
美代子は見たことがある。
次郎は来たことがある。
花子はいたことがある。

これはほぼ完璧なルールだ。  また<こと>の対象化表現機能だ。 

日 本語の時制(テンス)は元来の現在形(動詞は終止形)と過去形(動詞連用形+<た>)に<こと>、<ところ>さらには<くる>、<いく>、<いる><あ る>を使ってかなり複雑な英語文法でいう時制(テンス)を表せ文法ルールがある。本動詞が<くる>、<いく>、<いる>、<ある>の場合は一般動詞のルー ル当てはまらない。<くる>、<いく>は移動関連の、<いる>、<ある>は存在の動詞でそれぞれおもしろいところが多いにで、さらに検討してみる。

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日本語のアスペクト

時制 (テンス)に関連してアスペクト(Aspect)というのがある。繰り返しになるがはじめに次のように書いた。



日本語では時制は次の二つ。

1. 現在形 - 動詞は終止形
2. 過去形 - 動詞連用形 + 完了を表す助動詞<た>。

1. 現在形
現在形はけっこう難しい。現在形は次の二次的時制(sub-tenses)を表す。

1)中立あるいは基本叙述。説明、解説を表す。
太郎は働く。 美代子は見る。次郎は来る。 花子はいる。
2)継続的、断続的行為、動作、連続的状態をを表す。
太郎は(毎日)働く。 美代子は(毎日)見る。次郎は(毎日)来る。 花子は(朝からずっと)いる。
3)未来を表す。
太郎は(あした)働く。 美代子は(あした)見る。次郎は(あした)来る。 花子は(午後)いる。

 ”

アスペクト(Aspect)の定義はまだしていないが、<二次的時制(sub-tenses)>は時制ではなくアスペクト(Aspect)とも言えよう。

完了についても、下記をアスペクトと見ることもできる。

1. <現在から切りはなされた>過去 - 完了

2. 英語の現在完了形 は主に次の三つの意味を含んでいる。

1)過去から現在まで継続、断続していることを表す  - 継続、断続アスペクト
2)過去におこったが現在にも関連していることを表す - 完了アスペクト
3)過去の経験を表す  - 完了アスペクト

アスペクト(Aspect)を完了(perfective)と継続(imperfective)に分けることがあるが(ロシア語)、不完了/未完了は完了の否定だが継続でもある(終わっていない)。また人の世界の見方は開始よりも完了が視点になっているようだ。特に未完了は日本語では<まだxxx(し)ていない>と係り結びになり、強調されている。

1)xx は(が)始まった。
2)xx は(が)終わった。 

1)は<始まる>を使っているが内容は<完了>だ。また<終わる>、<終える>、は完了を明示的に(explicitly)にあらわす。<しまう>は<終わる>、<終える>ほど明示的ではない。

宿題はもうしてしまった。
宿題はなるべく早くしてしまおう。
xx は(が)始まってしまった。

アスペクト(Aspect)の範囲を広げれば日本語のアスペクトはかなり豊富である。繰り返しになるが、

英語の現在進行形<to be xx-ing>

動詞連用形 て + いる
動詞連用形 て + いる + ところ + だ

英語の<to be about to>は<差し迫った未来>とでもいえよう。一般には、

動詞連体形 + ところ + だ   長くなるが<差し迫った未来アスペクト>

今するところだ。

過去から現在まで継続、断続していることを表す
(ずっと) 動詞連用形 て + きた (have + 過去分詞)
(ずっと) 動詞連用形 て + きて + いる (やや翻訳調) (to have + been xx-ing)

過去の経験を表す
動詞連用形 + た + こと + が + ある    経験アスペクト

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太郎は働く。 美代子は見る。次郎は来る。 花子はいる。

上記以外にも次のような表現がある。

動詞連体形 + もの + だ   (socially required rules、natural phenomenon)

男は働くものだ。(socially required rules、natural phenomenon) (道徳的摂理) 摂理アスペクト
りんごは木から落ちるものだ。(natural phenomenon) (因果関係、自然の摂理) 因果、摂理アスペクト

動詞連用形 + た + もの + だ   (used to 不定詞) 習慣アスペクト

太郎は(よく)働いたものだ。

動詞連体形 + た + もの + だった   (回想、recalling)  習慣アスペクト

太郎は(よく)働いたものだった。

動詞連体形 + こと + だ  (対象化、感動)

 必要なのは太郎が働くことだ。 (対象化)

太郎はよく働くことだ。  (感動) 普通は<太郎は(なんと、まあ、ほんとに、etc)よく働くことだ。

XX ということになる (因果関係)  因果アスペクト

AをすればBということになる。

動詞連用形 + た + ところ + だ  (to have just finished)) 

美代子は見たところだ。 (完了というよりは(一回限りの、一時的な)出来事) 出来事アスペクト

動詞連体形 + ところ + だった   過去の<差し迫った未来アスペクト>

美代子は見るところだった。  <to be about to の過去> または   
美代子は見るところだった。 (が実際はみなかった)の意味にもなる。
曖昧さがのこるが、たいてい副詞が入り 曖昧さは除ける。

美代子は(ちょうど)見るところだった。
美代子は(もうすこしで)見るところだった。


いずれにしても<もの><こと><ところ>が大活躍する。日本語のアスペクトといえる。

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動詞連用形 て + いく  

動詞連用形 て + くる  

<くる><いく>は移動の動詞だが、<動く>、<歩く>、<飛ぶ>などが純粋な移動動詞であるに対して、アスペクト(Aspect)的な働きがある。次回のポストで取り上げる。

sptt

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参考2) <しまう>、完了の補助動詞

基本的には<しまう>に完了という文法上大きな意味があり<補助>を超えてアスペクト形成の働きがある。

接続をみると

してしまう - し終える
食べてしまう - 食べ終える
読んでしまう - 食べ終える
書いてしまう - 書き終える

のように、<しまう>は<動詞の連用形(音便化する場合がある>+<て>につく。一方<終える>は<動詞の連用形(音便化がない>につく。<て>は過去(または完了)の助動詞<た>と関連があり、<XXてしまう>は形態的に完了の強調と言える。

意味も少し違う。

<し終える>、<食べ終える>、<食べ終える>、<書き終える>があらたまった(よそよそしい)感じがする以外に完了とはいいながら<終えるまで>の経過 が含まれていて継続的、<線的>な感じがするのに対して<してしまう >、<食べてしまう>、<読んでしまう>、<書いてしまう>は<終えるまで>の経過 は考慮されずに完了が強調されており、<点的>な完了の感じだ。

<しまう>の面白いのは、時制をからめるとある意味で意味が逆転する場合があることだ。

現在(未来)の場合(日本語では現在形で未来をあらわす/せる)

してしまう、やってしまう、書いてしまう、見てしまう、捨ててしまう、食べてしまう

中立的な<終わらせる>でも使うが、<終わらせよう>という意図が含まれている場合が多い。

過去

してしまった、やってしまった、書いてしまった、見てしまった、捨ててしまった、食べてしまった

現在と同じように中立的な<終わらせるた>でも使うが、<終わらせようとした>という意図が含まれておらず、むしろ意図に反して<終わった>の意が加わる。

これはどういうことか?<しまう>が補助ではなく重要な動詞であるわけがここにないか?

アスペクトとも関連してくるが、完了(終わる、終わらせる)には成功、不成功の区別が往々にしてある。ロシア語はこの辺(完了、成功、不成功のアスペクト)が発達しているようだが、中国語にもある。

买(買)得到 - 買った。買えた(完了、成功)。
买(買)不到 - 買わなかった。買えなかった(完了、不成功)。

戒得到煙 - 禁煙した。禁煙できた。禁煙に成功した。
戒不到煙 - 禁煙しなかった。禁煙できなかった。禁煙に成功しなかった(失敗した)。

日本語の場合結構いい加減で、<買った>が中国語のゲンミツな観点からは実際には<買えた>の意味の場合がある。一方<買わなかった>と<買えなっかた>、<禁煙しなかった>と<禁煙できなかった>では大きな意味の違いがある。

中国語に慣れていない人のために、ゲンミツにいうと、

xx を買った - purchased (bought) xx
xx買えた    - was (were) able to purchase (buy) xx

英語も日本語に近く、成功不成功を強調しなければ Hanako purchased the dress which she (had) liked. で<花子は好きなドレスを買った>とも<花子は好きなドレス買えた>ともなる。<花子は好きなドレス買えた>はまちがい。<が>の対格用法。

1)禁煙した - stopped smoking

日本語や英語ではこれで<禁煙できた>の意を含むことができるがゲンミツにいうと、

2)禁煙できた - was (were) able to stop smoking

となる。ただし、 、成功不成功を取り立てて言わない場合は1)を使う。

ところで、<しまう>の<し>はいいとして、<まう>はいったい何か?<まる>の音便といえそうだが、別のポストで書いた<みまう(見舞う)の語源>、<ふるまう(振る舞う)の語源>(*)の<まう>と関連はないか?
 

(*)

sptt やまとことばじてん:<ふるまい>の語源
sptt やまとことばじてん:<見舞う>の語源

sptt

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参考3) <すます>、擬似完了動詞”

前回のポストで<完了>の補助助詞<しまう>について書いた。<すます>も面白い動詞で、<しまう>以上に慣用用法が多く、これまた相当こなれた動詞だ。語源上はにごりや不純物がなくなってきれいになる、の意の<すむ(澄む)>も同じグループ。

<すます>は漢字を使うと<済ます>で<済>の字から<xx を終わりにする>、<xx の決まりつける>の意が強くなるが、かなりの多義語だ。

1) xx を終わりにする、xx の決まりつける、完了の意味がある。

借金の返済をすます。
借金の返済をすました。(過去、あるいは過去の完了)。<借金の返済をした>とは明らかに違う。
夕食をすます。
夕食をすました。(過去、あるいは過去の完了)。<夕食をした>とは明らかに違う。

2)擬似完了

a)とりえず XX を終わらしておく(の決まりつけておく)。 実際には(事実上は)終わっていない(決まりが付いていない)。これを<擬似完了>とする。

b)とりえず XX で間に合わせておく、XX したことにしておく、の意。これも 実際には(事実上は)終わっていない(決まりが付いていない)の意があり、基本的には擬似完了だ。

以上の説明で<おく>という動詞をなんどもつかっているが<おく>はアスペクトのからむ日本語の重要動詞。

<すます>はさらに発展、派生して

xx になりすます

という表現があるがこれも擬似完了といえる。

太郎は悪いことをしてもすましている(すました顔をしている)。
花子はいつもツンとすましている。

という表現もあるがこの2例は<済む>と<澄む>の二つの意が重なり合っているようだが、いづれのしても大和言葉では<すむ>だ。

といった表現があるがこれらもも擬似完了といえる。 


擬似完了からの派生に<すみません>、<すまない>がある。

<すみません>は社会生活できわめてよく使われる言葉だ。分解すると

<すむ>の連用形<すみ> + <ます>の未然形<ませ> + 否定の<ん>(<ない>の音便か?)。

男性は簡潔な<すまない>もよく使うが、これは<すむ>の未然形<すま>+ 否定の<ない>の終止形。

したがって<すみません>、<すまない>は<すむ>の否定形だ。<すむ>の否定、とはいったい何か?

1) xx を終わりにする、xx の決まりつける、完了の意味がある。

の否定とすると、

xx を終わりにしない、xx の決まりつけない、の意になる。また完了の意味がなくなる

一方、2)の擬似完了の否定とすると話がややこしくなるが

a)(とりあえず)XX を終わらしておかない(の決まりつけておかない)の意。

b)(とりえず) XX で間に合わせておかない、の意。

<すみません>、<すまない>には1)と2)の両方の意味がありそう。

a)(とりあえず)XX を終わらしておかない(の決まりつけておかない)の意で、時間的にまだ終わったわけではない、の意を相手に伝えている。

b)(とりえず) XX で間に合わせておかない、の意で、 実際には(事実上は)終わっていない(決まりが付いていない)ことを相手に伝えている。

 a)にしても b))にしてもシリアスな発話だ。これは漢語由来の<失礼(しました)>と比べれば雲泥の差だ。

ち なみに中国語では<すみません>は<对不起>が対応し、<失礼(しました)>は最近はやりだした<不好意思>(広東語の影響)が対応するようで、<对不 起>の方は<对>(正しいこと)が<立たない>の意味からしてシリアスで、対人関係、さらには正義感が関係してきており、<すまない>と合い通じるものが ある。

ところで、英語の I am sorry. は個人の感情表現になっている。


sptt






Wednesday, April 16, 2014

<言う>のマイナスイメージ


<言う>はおもしろい言葉だ。<言う>自体はほぼ中立の意味で使われるが、他の語の組み合わせでは様相が変わる。<言う>が前に来る比較的慣用的な意味を持つ複合動詞を<あいうえお>順に書き出してみる。


言い合う --> 言い合い(*)
言いあぐむ
言い挙(あげ)る (*)
言い当てる
言い争(あらそ)う (*)
言いおく
言い返す (*)
言いかかる --> 言いがかり  (**)
言いくるめる (*)
言い込める (*)
言い渋る
言い過ぎる --> 言い過ぎ (*)
言いすくめる (*)
言い捨てる  --> 言い捨てならぬ> (*) 
言い立てる (*)
言い散らす (*)
言いつかる
言い繕(つくろ)う (*)
言いつける (*)
言い募(つの)る
言い習わす --> 言い習わし
言い抜ける (*)
言い逃(のが)れる --> 言いのがれ (**)
言い囃(はや)す (*)
言いふらす (*)
言い紛(まぎ)らす、いい紛らわす (*)
言いまくる (*)
言い含める  場合によっては(*)か。
言いふらす (*)
言い負かす
言い淀(よど)む
言い渡す
(追加予定)

(*)をつけたのは明らかに、またはどちらかと言うとマイナスのイメージがある複合動詞だ。相当ある。個人的な主観もあるが(**)はかなり強いマイナスのイメージ。

一方<語る>という動詞がある。

<語り合う>に<言い合う>のマイナスのイメージはなく、中立と言うよりはむしろプラスのイメージがある。<言い争い>はあるが<語り争い>はない。
<語り過ぎ>にも<言い過ぎ>の強いマイナスのイメージはない。どちらかといえば中立だ。
複合動詞ではないが<語りグサ>も同様。< なんだその言いグサは>は<なんだその語りグサは>とは言わない。物語(ものがたり)と物言い(ものいい)とは雲泥の差だ。<言いわけ>もマイナスのイメージがある。<言いわけ>は<言い訳>と書かれるが元来は<言い分け>。<分け>は<分ける>で<わからせる>の意があり、<言い分け>はプラスまたは少なくとも元来は中立のイメージだったろう。<言い分(ぶん>で名詞(体言)で主張に近い。<聞きわけがない>は親が子に直接言ったり、子について言ったりする。ただし<言い分>は<言いぶん>で名詞(体言)、主張の意に近い。<申しわけない>、<申しわけがない>はあやまるときに使い、<<申しわけありませんが、xxx>は英語の<Excuse me, but xxx>に相当する。

英語の to say も <to say "No" <とか <to have a "say" >のように使い方によっては単にしゃべるというよりは主張する意がある。日本語でもそうだ。

言い争う
言い返す
言い立てる
言い負かす
言い分(ぶん) (名詞、体言)

一方主張は<言い分(ぶん)>と言えるが、理性、社会的常識から離れると自己本位な、さらには攻撃的な<言いがかり>になる。<言いがかり>はきわめて強いマイナスのイメージがある。

<語る>以外にも<話す>、<告げる>、<申(もう)す>、<伝える> があるが、大体中立だ。<告げる>は<告げ口>というのがある。

発音を調べてみる。

言う - i (-u)
語る - ka-ta (-ru)
話す - ha-na (-su)
告げる - tsu-ge (-ru)
申す - mo-o (-su)
伝える - tsu-ta-e (-ru)

<語る ka-ta (-ru)>、<話す ha-na (-su)> は開口母音の連続で基本的にマイナスのイメージとの結びつきは少なく、一方閉口母音の<i>、<u>、<e>はマイナスのイメージに関する語が多いのが大和言葉の特徴。<言う>は意思伝達の道具としての<言葉>の一面を表しているようだ。


sptt


Wednesday, April 9, 2014

<行く>と<来る>の方向性



だいぶ前のポスト<ドイツ語の副詞 hin と her>では次のように書いた。


いずれにしても、gehen、kommen、to go、 to come、行く、来る、去、来 は使用頻度が極めて高い重要動詞で、使われ方の分析は一筋縄ではいかない。上記の分析では、これらの動詞(運動、移動関連動詞)は元来方向性を備えている ようだが、その程度はまちまちで、ドイツ語 gehen、kommen、日本語 行く、来る、 は方向性が弱いことになる。



また別のポストでは接頭辞<durch->に関連して次のように書いた。


<durch->を調べているときに気づいたことがある。<durch-> 当然ながら<通る>という動詞を使った説明が多く出てくるが、<xx を通り過ぎる>、<xx を通り越す>と言う複合動詞もかなりの頻度で出てくる。少し長くなるが<xx を通り過ぎる>、<xx を通り越す>よりも<xx を通り過ぎて行く>、<xx を通り越して行く>という三つの動詞の複合動詞が日本語らしい。



日本語の<行く>、<来る>の方向性について考えてみる。


xx を通る
xx を通り過ぎる
xx を通り越す

以上3例は方向性がない。右へ、左へ、上へ、下へ、東(西、南、北)へ、などを加えれば方向性がでる。だが、よく使うのは発話者から見ての方向性だ。

xx を通る - xx を通って行く、xx を通って来る
xx を通り過ぎる - xx を通り過ぎて行く、xx を通り過ぎて来る
xx を通り越す - xx を通り越して行く、xx を通り越して来る

こうすると方向性が出るばかりか描写性が高まる。目にうかんでくるのだ。この意味でも<行く>、<来る>は重要性だ。

英語の<to go>と<to come>、日本語の<行く>、<くる>で辞書や文法書で普通に出てくる説明は

<to go>と <行く>は対象(話題の主(ぬし)が<発話者から遠ざかる>場合。<遠ざかって行く>といいたいが<行く>をあえて使わないでおく。

<to come>と <来る>は対象(話題の主(ぬし))が<発話者の方へ近づく>場合。これも<近づいて来る>といいたいが<来る>をあえて使わないでおく。

太郎が行く。
花子が来る。

 しかしながら、よく調べてみるとこの説明は間違いではないが、例外がかなりあり、一般性が低い。

1)発話者が太郎と花子の行動について話すとしよう。

太郎が花子のところへ行く。 Taro goes to Hanako's place.
太郎が花子のところへ来る。 Taro comes to Hanako's place.

この例で<発話者から見て> <離れる>、<近づく>は関係ない。

2)<行く>と<来る>の違い

太郎が行く。
花子が来る。

<花子が来る>の場合はかなりの確率で<花子が(私の方へ)来る>だが、<太郎が行く>の場合は<太郎が(私のところから)行く>の意で発話される確率はそれほど高くはない。<私のところから>の外に<あるところから離れる(離れて行く)>の意で発話される場合が少なくない。

<行く>と<来る>は同等に扱うことができなのだ。移動に関しては<行く>の方が<来る>よりも一般性が高いといえる。個別化、特殊化されない一般的な発話の場合(たとえば、辞書内での言葉の説明)<xx を通り過ぎる>、<xx を通り越す>だけの場合<xx を通り過ぎて行く>、<xx を通り越して行く>の方が<xx を通り過ぎて来る>、<xx を通り越して来る>よりも先に頭に浮かんで来るのだ。


3)四方八方、<行く>、<来る>

<四方八方へ(に)行く>はいわば<360度どの方向へでも>の意で、さらに言い換えれば<特定の方向無しにあるところから離れる(離れて行く)>ことだ。

 <四方八方から来る>も同じ。はいわば<360度どの方向からも>の意で、さらに言い換えれば<特定の方向無しにあるところへ近づく(近づいて来る)>ことだ。

この場合も<話者のところから四方八方へ(に)行く>場合もあれば<太郎のところから四方八方へ(に)行く>場合もある。また<話者のところに四方八方から来る>場合もあれば<花子のところへ四方八方から来る>場合もある。

以上から、一般的に<行く>=<あるところから遠ざかる>、<来る>=<あるところへ近づく>と言うことができる。これを方向性といえば <日本語の行く、来る、 の方向性は弱くはない>といえる。また<行く>の方が<来る>よりも一般的と言える。

4)英語の to bring と to fetch

to bring は<持って来る>と<持って行く>の両方に使える。また<持つ>と<来る>、<行く>の複合動詞だ。また to bring ほど頻繁には使わないが to fetch はさらに進化して<行って持って(帰って)来る>の意だ。これは英語が特殊(進化し過ぎ)と言えるだろう。
中国語はおそらく日本語とほぼ同じ。

推測

to bring

把xx拿来、 把xx拿去
xx拿来、 xx拿去
拿xx来、 拿xx去

to fetch

去yy把xx拿来
去yyxx拿来、
去yy拿xx来

to fetch は話者が<私>そして<私が行く>ことが前提に立っているが(大抵の辞書はこの前提に立っている)、to fetch はto bring と同じように<だれかが私のところへ来てxx持って(帰って)行く>にも使う。
また話者Aが、BがC(yy)のところに行ってxxを持って帰って来ること、を述べることも出来る。 そしてCの立場に立ってBがC(yy)のところにきてxxを持って帰って行くこと、を述べることも出来る。方向に関しては<話者、私>から独立しており一般化が進んでいる、と言えるか?

中国語の場合は日本語と同じだろう

推測

来yy把xx拿去
来yyxx拿去
来yy拿xx去


sptt






Tuesday, April 1, 2014

ドイツ語の接頭辞(prefix) - 5 <über->


接頭辞(prefix)のポストで、 <durch->に続く第5弾über->。相良大独和辞典の<über->の解説の概要は次の通り。

分離前綴でüber- の解説はごく簡単に日本語(大和言葉)を使って、

アクセント有り。 ” かなたへ、越えて ” を意味する。

となっている。

かなたへ>はやや文語的で、口語では<あちらへ>、<あっちへ>だが かなたへ>のほうが遠いようだ。場合によっては<かなり遠い>ようだ。反対は<こちらへ>、<こっちへ>だ。日本語では<そちらへ>、<そっちへ>というにもあるがこれは<あちらへ>、<あっちへ>よりも近いようだ。また。距離以外に方向がある。

あちらへ(あっちへ)行く。場合によっては、そちらへ(そっちへ)行く。
こちらへ(こっちへ)来る。

と言うのが普通だが、中国語では<過>を使って

過去(カコ、ではない)
過来

と言いごく頻繁に使われる。 ” かなたへ” というよりは、”越えて ” だが、超えるのが何もない空間(空気や歩く地面はある)でもいい。<>は行く()、来る()の方向には関係しない。<行く>、<来る>自体に方向性がある。ちなみの<(あちらへ、そちらへ)持って行く>、<(こちらへ)持って来る>は

拿過去
拿過来

で簡単かつシステマチックだ。ドイツ語では、 hin、her が活躍するところだろう。hingehen、hinbringen、herkommen、herbringen という動詞がある。また、hinüber という副詞や接頭辞がある。herüber はやや変な感じがする。


一方不分離前 <über->の解説は漢語の羅列で<durch->分離前 が漢字の羅列なのとは対照的だ。

アクセント無し。他動詞として ” 過度、被覆、反復、等閑、無視、優勢、移転、拡張、委任 ” などの 意を有する。

となっている。漢語の羅列だが不分離前 über- 解説の方が意味ありげだ。

前回も書いたが、このドイツ語の接頭辞(prefix)シリーズのポストは接頭辞のあるドイツ語動詞の解説というよりは日本語探索が主で、主に利用している超大作の相良独日大辞典を読んでいくといろいろ発見がある。

 über->に相当する英語は over で、日本語は基本的には<xx の上に>で、基本動詞を使えば<上にある>、<上におく>、他の動詞を使えば<上回る>、<越えて>だろう。 

<越えて>

<越えて>は上述のように<分離前綴でüber->は ” かなたへ、越えて ” を意味する、という解説がある。また<不分離前綴でüber->の中に最後の方だが移転、委任というのがある。

 <過ぎて>

<durch->を調べているときに気づいたことがある。<durch->当然ながら<通る>という動詞を使った説明が多く出てくるが、<xx を通り過ぎる>、<xx を通り越す>と言う複合動詞もかなりの頻度で出てくる。少し長くなるが<xx を通り過ぎる>、<xx を通り越す>よりも<xx を通り過ぎて行く>、<xx を通り越して行く>という三つの動詞の複合動詞が日本語らしい。長くなるといってもたかが知れている。<xx を通り過ぎて来る>、<xx を通り越して来る>でもよさそうだが、über の場合<来る>よりも<行く>が適当のようだ。また頻度はそれほど多くはないが、<渡る>を使った説明(音が響き渡る)も出てくる。<過ぎる>、<越す>、<渡る>は<durch->の意味がある<通る>の補助的な意味だが、<通る>だけでは明らかに人の行為を含めて世の中の現象をあらわすには不足だ。 durch->のポストで次のように書いた。


 durch- は基本的な意味として貫徹-貫(つらぬく)く-の意がある。これは具体的、物理的狭い場所、または両端はあいているがそのほかは閉ざされた空間を一方の端(はし)から他方の端まで移動すること、あるいは空間ではなく実体のあるモノを力を加えて壊(こわ)してさらに進む、といった意を内包(to imply)している。



これに対して<過ぎる>は<物理的、比喩的にあるモノ、コト、目標のを動いて行く>、<越す>は<物理的、比喩的にあるモノ、コト、目標の上を動いて行く>という基本的な意味を内包している。<過ぎる>はペアの他動詞の<過ごす>があるが、<越す>は<越える>があるが<越す>も<越える>自動詞扱いだ。

<渡る>は点(モノ、コト、目標)ではなくある一定の距離のあるモノ、コトを一方から他方へ<通って>あるいは<越えて>動いて、またはある一点から周囲へ広がって、行くことだ。ペアの他動詞は<渡す>。

さて話は<über->にもどって、” 過度、被覆、反復、等閑、省略、無視、優勢、移転、拡張、委任 ” は一見あまり関係なさそうだが、大まかな共通性のある意味でいくつかはグループ化でぎる。そしてこの作業は大和言葉を知るのに大切かつ有効な方法だ。これは人間の頭脳が得意とするところでコンピュータは苦手のようだ。上記の<過ぎる>、<過ごす>、<越す>、<越える>、<渡る>、<渡す>との複合動詞を使ってグループ化がかなり出来る。

過度言い過ぎる、食べ過ぎる、飲み過ぎる、やり過ぎる、大き過ぎる(純動詞ではない)、に共通した意味。 

等閑、省略、無視 - 見過ごす、乗り過ごす、通り過ごす、寝過ごす、やり過ごす、に共通した意味。<見過ごす>と<見逃(のが)す>は似て非なる意味の動詞だ。また<やり過ごす>には相当進化した複雑な意味がある。またとび越す、乗り越す、通り越す、に共通した意味でもある。<見過ごす>と<見越す>は意味が違う。

移転  - 引っ越す、繰り越す、に共通した意味。 また引き渡す、売り渡す、に共通した意味。

委任  - 譲り渡す、言い渡す、に共通した意味。 越える

<移転>と<委任>は<xx が yy から zz に動く>、<xx を yy から zz に動かす>の意で一般化が出来る。 <引っ越す>は英語だと to move で<動く>、<動かす>のより基本的な意味の動詞で間に合わせている。英語になれないうちは<引っ越す>=<to move>の変換が出来ない。直訳は<to draw across>で、<to draw xxx across>と他動詞ならば何とか通じそうだ。また<送る>(to send、 senden)や<届(とど)ける>(to reach、reichen)も関連語だ。

被覆 - 動詞を使うと<被(かぶ)せる>、<覆(おお)う>になるが基本的な意味(動作、行為)は<上に置く(to overlay)>ということだ。

反復  - これはこの辞書の中で例はごく少ない。durchhäufen(積み重ねる)が例だが、反復と言うよりは累積、重積で基本的には<上に置く>だ。

したがって、 被覆も累積、重積(反復)も<上に置く>で一般化できる。

優勢、拡張  - 優勢は<勝(まさ)る>、拡張<増(ま)す>と大和言葉に言い換えられる。漢字を使うと見えなくなってしまうが、<まさる(ma-sa-ru)>、<ます(ma-su)>でもとの根は同じだ。<ますます(ma-su-ma-su)>は<ます(ma-su)>の基本的な意味を副詞だ。<まさる>には<越える>の意味がある。<渡る>も一方から他方へ<通って>あるいは<越えて>動いて行くの意ではなく>、<ある一点から周囲へ広がって行くこと>と見れば拡張につながる。音が響きわたる。支配がいきわたる。<渡る>と漢字を使うとこの意が薄くなる。ペアの他動詞は<渡す>。 

<優勢、拡張>は<過度>と共通するところがある。さらには、優勢、拡張 分離前綴で durch->の主要な意味の<充満>と重なるところがある。


一方英語の over は副詞用法を加えればほぼ全部カバーできる。

過度 - to overdo, to overeat, to overload
被覆  - to overcoat, to overlap, to overshadow (to coat, to lap に被覆の意味がある)
反復  - to overcoat, to overlap
等閑  - to overlook, to look over
無視  - to overlook, to look over
優勢  - to overtake, to overpower
移転  - to move over
拡張 - to overtake, to overpower
委任  - to hand over


タイトルが<ドイツ語の接頭辞>なのでドイツ語のいくつかの例を見ておく。
 (追加予定)


 

sptt