Monday, June 26, 2017
イタリア語の条件法、接続法と日本語の仮定形
イタリア語(スペイン語、フランス語もほぼ同じ)が面倒なところは動詞活用だ。日本語にも動詞活用(未然形、連用形、終止形、連体形、仮定形、命令形)があるが、内容はかなり違う。イタリア語には条件法、接続法という動詞の語尾変化(活用)があり、これが面倒中の面倒だろう。しかしモノゴトは見方次第で変わり、これを面倒と見るか<おもしろい>と見るかで、学習効率に大きな差がでてくる。なぜイタリア語なのかというと、特に文法的な理由はなく、昨年から30年ぶりぐらいでイタリア語のを再勉強中だからだ。しいて理由をさがせばイタリア語のもとは地理的にもラテン語だ。sptt Notes on Grammar はラテン語文法の勉強から始まっている(2009年)。
イタリア語の条件法
日本語の仮定形は<(もし)xxx ば>とい仮定文の動詞(xxx部)の語尾変化のことで、
歌え ば
行け ば
借せ ば
立て ば
死ね ば
住め ば
すれ ば
<ば>のまえの動詞活用語尾に注目すれば
<え(e)>、<け(ke)>、<せ(se)>、<て(te)>、<て(ne)>、<め(me)>、 <れ(re)>と<e>がきて、これに仮定を表す助詞<ば>がつく。昔は
歌わ ば
行か ば
借さ ば
立た ば
死な ば
住ま ば
(せ ば)
と活用したので<a>がきて、これに<ば>がついた。これは後に<ず>がつく未然形(否定形)と同じで、<a>から<e>は大きな変化だが、言葉は変化するものだ。仮定は見方を変えれば<未だしからず(未然)>で、昔の方が理にかなっている。
ここで注意したいのは仮定形は英語の<if>の学校教育の影響を受けてか<もしxxx ば>と<もし>をつけるのが普通になっているが、この<もし>は本来いらず、いわば蛇足だ。仮定を表す助詞<ば>は必要だが、動詞の仮定形は<e, ke, se, te, ne, me, re>と<e>の発音があるので、
歌え、行け、借せ、立て、死ね、住め、は状況によっては命令になりかねないが
食べれ
起きれ
食べれ
来(く)れ
すれ
などはあとに<ば>がくることが予想される。仮定を表す助詞<ば>とこの仮定形の語尾変化だけで仮定を表すのは十分で、しつこいようだが<もし>は蛇足なのだ。
さてイタリア語の方だが、<(もし)xxx ば>とう仮定文の中での語尾変化は仮定法(conditional)ではなく接続法(subjunctive)なのだ。イタリア語では<(もし)xxx ば>という仮定文は従属節扱い。従属節は<sub + junction =従+属>の意があるから subjunctive の日本語訳に近い。では仮定法(conditional)はどこにくるかというと、従属節(接続法)の仮定内容から推測されること(結論、予想)を述べる主文の方で使われるのだ。
日本語の方は<(もし)xxx ば>という仮定文は蛇足の<もし>もふくめて、十分に仮定をあらわすが、仮定の内容(条件)から推測され成り行きを述べる方(イタリア語ではここが仮定法)は文法的(語形変化、動詞活用)に貧弱なようだ。
もし太郎が行けば、花子は行かない。(ほぼ100%行かない)
もし太郎が行けば、花子は行かないだろう。(ほぼ70-80%行かない)
もし太郎が行けば、花子は行かないかもしれない。(ほぼ30-50%行かない)
もし太郎が行けば、花子は行かない。
これはほぼ100%花子は行かないので、イタリア語では主節は条件法にならないだろう。日本語の方も
もし太郎が行くと、花子は行かない。
と言え、<もし>は語呂が悪そうだが<もし>があっても動詞は仮定形をとらない。さらに
太郎が行くと、花子は行かない。
でも仮定が表されるようだ。 仮定の意味がないのは
太郎が行くので、花子は行かない。
したがって
太郎が行くと、花子は行かない。
の<と>が重要な意味、助詞としのはたらきがあることになる。<と>については別のポスト"<と>は日本語の大発明" (2015年)でその重要性をのべたが、ここでは<と>の接続法的な役割の可能性を考えてみたい。"<と>は日本語の大発明"の中で次のように書いた。少し長いが重要と思うので引用する。
”
<と>が日本語の大発明であるのを発見したのは大分前で2012年9月に<日本語の助詞>という大きなタイトルのポストを書いているときだ。前回のポスト ”<言う>は自動詞、他動詞?” を書いているときに<xxx と言う>のが出てきたので 念のため<と>を手もとの辞書(三省堂、新字解、第6版)で確認してみた。格助詞の解説は次のようになっている。
<中略>
さて今問題にしている<と>は②の解説になる。
② 思考、表現、行動の内容がそれであること表わす。
この辞書を引き慣れていない人のは、これでは何のことだかわからないだろう。 特に<内容がそれである>の<それ>だ。何が<それ>なのか? この辞書はよくわからない<それ>が解説のなかでよく出て来る。
② 例として
”
xx と思う、xx と見る、xx と考える、xx と想像する、xx と言う、xx と伝える、xx と呼ぶ(*)、
xx と決める、xx と判定する
”
があげられている。 簡単に解釈すると<xx>のところが<それ>なのだろう。これを言い換えて、
<と>は思考、表現、行動の内容であること表わす。
としたらどうか?<xx と決める>と<xx と判定する>は思考、表現、行動と言うよりは<決定(の内容)>でいいと思うが、決定を思考の結果とみれば<決定>がなくてもよさそう。だが、
<と>は思考、表現、行動の内容であること表わす。
は簡単でよさそうだが、少し、または少しよく考えるとこれも何かおかしい。何かが抜けているような感じがする。何かとは何か? 結論を言うと、<それ>が抜けているのだ。<と>は内容あらわしているのではないのだ。細かく言うと、<xx>が内容に当たるが、<と>は内容を表わしているわけではない。内容は<xx>なのだ。これでは堂々めぐりになりそう。ここで<と>は格助詞であることを再認識しよう。助詞とは何か? <日本語の助詞>でもしつこく書いたが、
sptt Notes on Gramar<日本語の助詞>
”
助詞の特徴はなんども述べてきたが、<内包された(implied)意味、または同じ文の中の他の語との関係を示す>ということだ。助詞自体に明示された(explicit)意味はない。
”
<助詞自体に明示された(explicit)意味はない> のだ。つまり
<と>は<思考、表現、行動の内容であること表わす>働きをする。
<と>は前にある<思考、表現、行動の内容>と後ろにある動詞(思う、見る、考える、etc )の関係を示す。
ということだ。 何のことはない。
(*)
<xx と呼ぶ>はやや違うようだがが、この<呼ぶ>は<yy を xx と呼ぶ>という使い方で、yy と xx 関係を示しており、xx が内容と見れればいい。
英語をまた引き合いに出す。
I think that xxxx
は<私は xxxx と考える>なので
that = と
となる。それではこの that は何か。おそらく that 以下の内容(xxxx)を示す接続詞だろう。しかし、上記の<と>の機能からは接続詞というよりは "関係詞" だ。関係詞といえば関係代名詞がすぐ思い浮かぶが、 that は関係代名詞だろうか? 実は、隠れた関係代名詞なのだ。英語の辞書や教科書には説明がないようだが(よく調べてはいない)、 この that はもともと(古くは)
I think that、 xxxx で
I think、 that xxxx ではないのだ。つまりは
I think that、 (that is) xxxx = 私はそれを考える、 それとは xxxx だ。
とうことだ。この説明は相良独和大辞典で見つけた。
xxxxen (動詞) das xxxx ----> xxxxen (動詞), daß (dass)
<と>は手もとの辞書では格助詞としてさらに③、④、⑤、⑥ の意味(内包された(implied)意味)があり、さらに接続助詞としてロジックにも使われる( xxx になると yyy )。<と>は単音節(to)の一字に過ぎないが、文法上もさることながら、日本語のなかで大活躍しており、その機能を考えると日本語の大発明と言える。
sptt
”
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