Tuesday, January 8, 2019

<が>と<は>の違い - これでわかる。


<が>と<は>の違いについては、それこそゴマンという論議がある。よく目にする解説は<が>は主語を示す格助詞。一方<は>主題を示す係助詞、または副助詞ということになっている。この違いの根拠として、これまたよく取り上げられるのは

象は鼻が長い。

という文だ。<象は>の<は>は<鼻が長い>の主題とされる。主題というのが何だかよくわからないが<xx についていえば>ということ、という解説がよく見られる。<なるほど>というよりは<そういうもんか>で済ませているようだ。これは<鼻が長い>の<が>は<長い>の主語(<何が長い>の何(なに)、<長い>の対象と言ってもいい)を示すので<は>を主語とすると主語が二つあることになって具合が悪いいという文法上の理由からだろう。もっともこの意味では<象は長い>はナンセンスだ。だが話はそう簡単ではない。この文は<は>と<が>で4っつの組み合わせがある。

1)象は鼻が長い。
2)象が鼻は長い。
3)鼻は象が長い。
4)鼻が象は長い。

繰り返し使用をゆるすと、さらに下記の4っつがある。

5)象は鼻は長い。
6)象が鼻が長い。
7)鼻は象は長い。
8)鼻が象が長い。

<8)鼻が象が長い>は、この短い単純な文に明らかに違った主語が二つ続けて出てくるので、まったくダメのようだ。1)-7)はいづれも可能のようだが、<象は長い>、<象が長い>はそのままではナンセンスだ。しかし

3)鼻は象が長い。  ->鼻は(といえば)、象(のそれ)が長い。
4)鼻が象は長い。  ->鼻が、象は(といえば)、長い。

の意味にとれる。

7)鼻は象は長い。

はすこしやっかいだ。

<鼻は象は長い>は可能だろうが、<鼻長い>と<は>が続けて出てくるので<語呂がわるい>。語呂悪いが、可能なのは<は>が主語を示すのではなく、何だかようくわからないが<主題>を示すためか?鼻も象も主題として解釈すると

7)鼻は象は長い。 -> 鼻はといえば、象はといえば、長い。

となり、これでは何のことだかわからない。一単文(複文ではない)の中に<主題>が二つあるのも(は)具合が悪いようだ。しかし

鼻はといえば、象の鼻は長い。

ならいい。とうことはこの<象の鼻は長い>の<は>は主題ではなく主語<象の鼻>を示すのではないか?始めにもどって、繰り返しになるが

象は鼻が長い。

の解説で、なんだかよくわからない主題が使われるのは<は>を主語を示す格助詞とすると<が>と同じになってしまって具合が悪いからだ。しかし文構造がもっと簡単な

太郎が行く。
太郎は行く。
桜が美しい。 (<美しい>は形容詞で終止形)
桜は美しい。

では<象は長い>といった問題は起きないので<が>も<は>も<行く>、<美しい>の主体、すなわち主語を示すのは間違いない。

太郎についていえば(どうかというと)、行く。
桜についていえば(どうかというと)、美しい。

といった、もってまわった、主語、主体がないような意味ではない。だが、主体、すなわち主語を示すとは言っても<が>と<は>では意味、ニュアンスは明らかに違う。

英語の場合は文法上主語が必要なので(動詞の活用、do、does で少し区別があるが、英語では主語が置かれる)。

About Taro, he goes.
How about Taro, he goes.
Concerning Taro, he goes.
About cherry blossom, it is beautiful.

で主語<he>、<it>が出てくる。<he>、<it>は代名詞で形式的主語といえるかもしれない。こういう言い方(文構造)はめずらしくはない。フランス語では多用するよう(xx、C’est yy.  の形式)で。一方日本語の場合は文法上主語は必ずしも明示する必要はないので

太郎についていえば(どうかというと)、行く。

で済みそうだが、こうはまず言わない。では英語のように

太郎についていえば(どうかというと)、彼は行く。

とか、あるいは(<彼>は翻訳語なので)

太郎についていえば(どうかというと)、太郎は行く。

ともまず言わない。こうはまず言わないが、この二文の<彼>、<太郎>は、主題は前にあるので、主題ではなく主語だろう。さもないと(主題にこだわって)

太郎についていえば(どうかというと)、彼(太郎)にいていえば、行く。

と変テコなことになってしまう。

<象は鼻が長い>は<は>と<が>が一単文の中にでてくる。<は>だけの

太郎は行く。
桜は美しい。
鼻は長い。

の場合、<は>は主語、主体としての<太郎>、<桜>、<鼻>を示すといっていい。にもかかわらず<は>が格助詞になれないのはなぜか?<象は鼻が長い>では<は>は<主語ではなく主題を示す>になるのは、文法構造を説明するために考えられたのか?<象の鼻は長い>の<は>は主題ではなく主語<象の鼻>を示すのではないのか?

ところで、次のような言い方がある。

1)ギャンブルは嫌いだ。
2)ギャンブルが嫌いだ。

<ギャンブルが嫌いだ>の<が>は、意味からすると<嫌いだ>の主語ではない。では何か?実際の発話では

2)ギャンブルが嫌いだ。 -> (私(太郎)は)ギャンブルが嫌いだ。

が想定される。したがって、主語は明示されていないがあるのだ。そうすると<ギャンブルが嫌いだ>の<が>はなにか?<が>は主語を示す以外に

好き嫌い - xx がすき(だ)、 xx がきらい(だ)。
ほしい  - 金が欲しい、時間が欲しい。
要(い)る -  金が要る。(<金が要らない>は少し変で、ふつうは<金は要らない>となるが、ここでは詮索しない。)
xx (し)たい - ケーキが食べたい(ケーキを食べたい、は間違い)、酒が飲みたい、旅行がしたい。

などで対格(目的格)を示す。これは日本語の文法法則。<が>は主格だろうと目的格(対格)だろうと、とにかく格助詞なのだ。(別のポスト ”対格の格助詞<が>” 、” 好き、嫌いの文法分析” 参照。)

では<は>は主格を示す格助詞ではないのか?この説明はなぜか初級文日本語文法(少なくともこれまで私が読んだ文法書、文法関連の記事など)では出てこない。それでは

1)ギャンブルは嫌いだ。

の<は>は<が>と同じように対格を示さないか?

 1)ギャンブルは嫌いだ。 -> (私(太郎)は)ギャンブルは嫌いだ。

 同じよう論議になるが<は>を<主題を示す>と考えると

 (私(太郎)はといえば)、ギャンブルといえば、嫌いだ。

で、こんな言い方はしないが、なんとか意味は通じる。さらには

 (私(太郎)はといえば)、ギャンブルは、それが(ギャンブルが)嫌いだ。

も可能。このような言い方は、誤解を極端に避ける法律文に見られる。

窃盗は、これを罪とみなす。(実際に法律文にあったてみたわけではないが、このような法律文はたくさんある。)

日常生活でも、

ギャンブル(たばこ、酒)は今日限りやめる。
この場所でキャンプ(たき火)は禁じる。

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(挿入。無視してもいい。)

ギャンブルはやめられない。 - <ギャンブルがやめられない。>も可能。可能/不可能、できる / できない。

ここには車は泊(と)められない。- これは<には>の複合助詞。主語ではなく、場所を示すので副(詞)助詞だ。これも <ここには車が泊(と)められない。>が可能だ。

この列車は、一旦走り出すと、止められない。-<この列車が、一旦走り出すと、止められない。>はダメだ。これは<この列車が>がおかしいようだ。<この>のない

列車は、一旦走り出すと、止められない。

は一般的すぎて、内容自体おかしくなる。

欲望は、一旦走り出すと、止められない。 - <欲望が、一旦走り出すと、止められない。>は変だが

太郎は、欲望が、一旦走り出すと、止められない。

ならよさそう。このやや複雑な言い方、文法的にどう解釈したらのか?

(追加予定)

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<やめる>、<禁じる>、以下動詞はすべて他動詞。他動詞だから目的語をとり、目的語は最初の2例ではギャンブル(たばこ、酒)、キャンプ(たき火)だ。ということは、<が>と同じく<は>対格(目的格)を示す、ということになる。しかも<が>と違って<禁じる>、<やめる>はごく一般的な他動詞だ。<が>にはこの用法がない。

ギャンブル(たばこ、酒)が今日限りやめる。(まったくダメ)
この場所でキャンプ(たき火)が禁じる。(まったくダメ)

<は>と<が>は違うのだ。どこが、どう違うのか?これまで述べてきたことをまとめると次のようになる。

<が>

1)主格(主語)を示す。

太郎が行く。桜が美しい。鼻が長い。

2)場合によっては対格(目的語)を示す。

花子はチョコレートが好きだ。 (チョコレートを好む)
太郎は数学が嫌(から)いだ。(数学を嫌う)

<は>

1)象は鼻が長い。

<は>は<鼻が長い>の主題。

2)太郎は行く。桜は美しい。鼻は長い。

<は>は主語、主体としての<太郎>、<桜>、<鼻>を示すといっていい。

3)ギャンブルは今日限りやめる。この場所でキャンプは禁じる。

 <ギャンブル>は<やめる>の、<キャンプ>は禁じるの目的語とみていい。

主語、主体は主格、目的語は対格なので、なんだかよくわからない<主題>を示す役割を無視すれば、<は>は<が>と同じく格助詞でよさそう。無視するのがまずければ、格助詞だがこういう役割もある、としておけばいいだろう。しかしながら、文法書、辞書の解説(注)では

<が>は主語を示す格助詞。<は>係助詞、または副助詞。

となっているのだ。なぜ係助詞、あるいは副助詞なのか、簡単な解説は見たことがあるような気がするが、忘れてしまっているので、以下少し考えてみる。

(注)手もと三省堂新明解辞典(第6版)の<は>の解説①②は次のようになっている。これはこのポストを書いているあいだ、なんどか読んで、考えてみた。


副助詞
① 判断の対象や叙述が、その範囲ない限られることを表す。(例文あり)
② その叙述内容の成り立つ条件に限定を加える、ことを表す。(例文あり)



① 判断の対象や叙述が、その範囲ない限られることを表す。

はこれからのべる<定不定の二大分類)の<定>にあたる。新明解の<が>(格助詞)の説明には格助詞の説明はあるが、<不定>あるいは<不定>相当の語を使った説明はない。

話は少しもどって、

8)鼻が象が長い。

がダメなのは、すでに指摘したように、一単文の中に二つの<主語>があると意味がとれなくなるためだろう。

(上の<象は鼻が長い>で<は>と<が>の入れ替えをした論議は)マトリックスのような論議だが、これで推測できることは

xx が yy が
xx は yy は

と同じ役目の同じ助詞が重なるのは避けられるようだ。 特に<xx が yy が、(8)鼻が象が長い>は語呂からも文法上の意味からも具合が悪い。<xx は yy は、7)鼻は象は長い>は、解釈次第では意味が通じるが、語呂が悪い。

象が鼻は長い。

はどうか。これは<象が>で象が主語になり、<鼻は>で鼻が主題になる。

象が鼻は長い。 -> 象が、鼻はといえば、長い。

ということになる。<象が長い>はそのままでは具合がわるいが、間(あいだ)に挿入として<鼻はといえば>をいれた文構造になっている。日本語ではあまりこういわないが、英語ではごく普通に

The elephant, whose nose is long, (is the biggest animal in the world now).

と言ったりする。慣れてくると便利な言い方なのだ。一方日本語の方も<象が鼻は長い>は少し変だが、(慣れてくると)便利な言い方なのだ。

<象が鼻は長い>は少し変だが、と言ったが、 <何が、どの動物が鼻は長いか?>という問いに対する回答になりうる。ふつうは<が>が続いて出てくるが、<象が鼻が長い>が正解だ。<象が>の<が>は<は>のような主題を示すのではなく、<何が、どの動物が鼻は長いか?>という問いに対する回答なのだ。したがって<象>または<象が>だけでも十分な回答になる。一方、問いの方もふつうは

、どの動物長いか?
どの動物長いか?

となるだろう。 疑問は答えが出るまでは不定なので<どの動物>と<が>が使われる。<鼻が>は<鼻は>でもよさそうだが、<長い>の主体と言うことでは<が>の方が<は>よりもはっきりしている。どの動物長いか?>と<が>が重なるが語呂よりも文法が優先されるのだ。答えの方も<象が鼻が長い>と<が>重なり語呂は悪いが正解で、<象は鼻が長い>はナンセンスな答え、<象が鼻は長い>も少しズレた回答だ。

鼻は長い。

はどうか?<象の鼻>は主語ではないのか?主語だとすると、< 象の鼻は>の<は>は主語を示す格助詞にならないか?

象の鼻長い。



象の何が長い?

という問いに対する答えだ。

長い?

という問いに対しては

長い。
象の鼻長い。

が正解。

<象は鼻が長い>とは答えない。<象は鼻が長い>は<象は何が長い?>という問いに対する答えならOKだが長すぎる。小さいこどもなら<象は何が長い?>の問いに対して<鼻>の一語で答えるだろう。そしてこれで十分だ。<は>を使うと<大人>のもってまわったい方になる。

しつっこい繰り返しになるが

何が長い?
象は何が長い?

という問いに対して

象の鼻は長い。

は不正解、というか答えになっていない、ナンセンスなのだ。これは<が>は主語を示す格助詞で<は>そうではない、という根拠になる。だが<象の鼻は長い>の<は>は主題を示すというよりは<長い>の主語<象の鼻>を示すと言えないか。これは<象の鼻といえば、(それは)長い>というような主題ととらえての発話ではないだろう。主語と主題、特に<主題>については<xx についていえば>ではなく、もう少し文法的な定義が必要のようだ。

以上の説明は文字でかくと面倒くさいが、日常では発音上の強調(ストレスを置く)で簡単にできる、というか、ほぼ無意識でこれをやっている。英語では<There is xx>は別として<が>と<は>の区別が基本的にないので、ストレスの位置は肝心だ。

Taro goes. (特にストレスなし)と Taro goes. (Taro にストレスがある)では意味が違ってくる。

Who goes ? という問いに対する答えは Taro goes. だ。この goes だが、状況によっていろいろな意味になる。

Taro goes to school every day.
Taro goes now.
Taro will go now. の意も可能だろう。

さて Taro goes now. を例にとると、これは<今太郎が行く>か、それとも<今太郎は行く>か?

Taro goes. であれば<太郎が行く>だろう。そして多くは<誰が行く?>に対する答えだ。特にストレスがない Taro goes. は少しおかしいというか、無意識的に Taro goes. になる。 ただし状況によっては Taro goes now. や Taro goes now. となる。このポストは日本語の<が>と<は>の話なので、これ以上深入りはしないが、これは重要なことだ。実際のところ、このポストを書きはじめたのは、これを発見して詳しく書くつもりだったからだが、初めから横道にそれてしまって、それたまま話を進めている。
 
さて始めのところで

これは<鼻が長い>の<が>は<長い>の主語を示すので<は>を主語とすると主語が二つあることになって具合が悪いいという文法上の理由からだろう。

と書いたが、これには意味がある。たとえば

象が鼻が長い。

は前提がないと(突然いわれると)変な日本語だが

象が鼻が長いのは xxxx  だからだ。

と変ではなくなる。これは

鼻が長いのは xxxx  だからだ。

と同じような意味で、<象が鼻>の<が>は<我が国>の<が>と同じ、つまりは<が=の>と説明できるかもしれない。しかし実際の、準備なし(だが考えながら)の発話の場面を考えると

象が、鼻が長いのは、(ええと) xxxx  だからだ。

と<象が>で切り出すだろう。<象は>でも、<象の>でもない。なぜ<象が>なのかというと、言い始める時(あるいは瞬時前)に< xxxx  だからだ>の部分がすでに頭の中にあるのだ。< xxxx  だからだ>は説明なのでその前に<は>がくる。これも頭の中にあり、実際には<は xxxx  だからだ>が、さらには場合によっては、<鼻が長いのは、xxxx  だからだ>が頭の中にあるのだ。そうすると、日本人なら<象は、鼻が長い>とは言いださないのだ。なぜなら<象は鼻が長い>と言うと、言う予定にしていることが

象は鼻が長いのは xxxx  だからだ。

となって、変な日本語になることを無意識に予想しているからだ。 これが変なのは

<象は>でいわゆる主題を示す、すなわち<象について言えば>、

<鼻が長いの>は<鼻が長いこと>の意。

<象は鼻が長いの>はいいが、<象は鼻が長いのは>は<は . . . . . は . . . .>と<は>が重なるのだ。<は>は主題を示すにこだわれば

象について言えば、鼻が長いことについて言えば、xxxx  だからだ。

で意味は成り立つ。 <は>の主題を示すにそうこだわらなければ

 <象について言えば>、<鼻が長いのは>< xxxx  だからだ。>

で意味は通じ、日本語としておかしくない。ところが<象は鼻が長いのは>はダメなのだ。ダメな理由は、繰り返しになるが、<は . . . . . は . . . .>と<は>が重なって語呂が悪いためか?たとえば、<象は鼻が長い>ですでに一文になっていて、区切れる感じがある。まだほかに理由がありそうだ。


定不定の二大分類

長い?

とい言い方、問い方はしない。これは間違いなのだ。 なぜ間違いかと言うと、<何(なに)>は英語文法にならうと疑問詞といえるが、文法上の<定不定の二大分類>では疑問は<まだ決まっていないから<不定>の仲間だ。<定不定の二大分類>というのは私が勝手に作ったものだが、英語の不定冠詞、定冠詞をもっと広く文法に適用したもので、これは助詞<は>の説明に使われる。簡単な日本語文法では

<が>は初めて話題にのぼることがらに使われる。-(慣れないうちは変だが)不定と考えていい。発話されるまではなんだかわからない(決まっていない=不定)なのだ。

<は>はすでに話題にのぼっていることがら(明らかに話題にのぼっていなくても対話者間で了解されていることがらを含む)に使われる。- 

というような解説がよく見られる。文法書では

むかしむかしおじいさんとおばあさんいました。おじいさん山へ芝刈りに、おばあさん川へ選択に行きました。

が引き合いに出される。説明はしないが、上記の初回出(イントロダクション)には<が>が、その後は<定>になっているので<は>が使われる。

これは英語の不定冠詞、定冠詞の違い、さらには使いわけ方に応用でき、<定不定の二大分類>は言語を問わない汎用性がある。

(”<定不定の二大分類>言語を問わない汎用性ある。” の<は>と<が>の違い示している。これは ”<定不定の二大分類>言語を問わない汎用性がある。” とも言える。)



There is a book on the table.

簡単な文だが、<定不定の二大分類>を使うと

<a book>は<不定の本>で the table は<定のテーブル>となる。なぜ<不定の a book>になるかというと There is は<初めて話題にのぼることがら>を示すのに使われるからだ。日本語にはこの表現がないが、中国語には一字の<有>が There is に相当する。しかも<初めて話題にのぼることがら>は英語と同じ語順で<有>の後に来て、<有一本書。>となる。さて日本語ではどうなるかと言うと

本がある。
テーブルの上に本がある。

となる。もっともこういう発話は教科書とか、今書いているこのような文法論議にしか出てこないだろう。

あ!、本がある。
あ!、テーブルの上に本がある。

なら現実、日常世界でいいそう。

テーブルの上に本はある。
本はテーブルの上にある。

は少し現実的で、教科書以外の、ふつうの日常の場での発話としておかしくない。<本は>の<は>はすでに話題にのぼっていることがら(明らかに話題にのぼっていなくても対話者間で了解されていることがらを含む)に使われる。

もう少しさらに現実的には

あの本はテーブルの上にある。(あの本ならテーブルの上にある。なら本当に言いそう)

ところが、場合によっては

あの本がテーブルの上にある。
あ!、あの本がテーブルの上にある。

も可能で、しかも自然だ。しかもこれは<あの本>は<定>(対話者間で既知)だが、<が>が使われている。 すでに文法規則違反だ。これは<あの本がテーブルの上にある>は予期しない突然の発話、前置き、前条件がないともいえる発話で、上にあげた

<が>は初めて話題にのぼることがらに使われる。

に似てはいるが、<あの本>は

<は>はすでに話題にのぼっていることがら(明らかに話題にのぼっていなくても対話者間で了解されていることがらを含む)に使われる。- 

が適用できる。これは何を意味するかと言うと、対象の定不定(ある本、あの本)の違いは別の条件に従うといえる。ヒエラルキー、優先順位があるのだ。そこで、対象の定不定(ある本、あの本)に優先する条件とは何かということになる。上で

<あの本がテーブルの上にある>は予期しない突然の発話、前置き、前条件がないともいえる発話

と書いたが、このような条件が対象の定不定(ある本、あの本)に優先する条件、といえそうだ。


<は>の対比用法

もう一つ<が>と<は>の違いで一般的に言われているものは<は>の対比用法だ。上でのべた<定>は手もとの辞書の解説の<限定>に相当するが、対比は対比対象を限定しないと成り立たない。

太郎が行く。花子が行かない。  /   太郎が行くが、花子が行かない。



太郎は行く。花子は行かない。  /   太郎は行くが、花子は行かない。

を比べると、<は>は対比を示すようだ。とくに二番目は<行くが>の助詞<が>も対比を示しており対比がはっきりしている。この<が>(格助詞でない<が>)は別としてこの対比のための<は>の選択は、日本人なら、無意識のうちにやっている。ここは肝心なところで、発話の前にすでに<は>が選択されているといっていい。もっとも別としてといったが、対比の格助詞でない<が>も、発話の前にすでに選択されているといっていいだろう。そうでないとすると

太郎、ムゥー、は行く、ムゥー、が、 花子、ムゥー、は行かない。

といったことになる。

もう少し並べてみる。

太郎が行くが、花子が行かない。
太郎が行くが、花子は行かない。
太郎は行くが、花子が行かない。
太郎は行くが、花子は行かない。

状況、場合によっていずれも可能で、”<は>は対比を示す” は完全ではない。

太郎が行く。花子が行く。

は対比ではない。

<太郎が行くが、花子が行かない。>は変な言い方のようだが、たとえば

太郎が(部屋から)出て行くのを見て

(あ!、)太郎が出て行く。

そして、

花子が出て行かないの見た場合には、発見の印象が強い場合

(あれ、)花子が出て行かない。

は可能だ。この発見が同時、’または続けて起きた場合には

太郎が行くが、花子が行かない。

というかもしれない。 内容的には対比と言えるが、発話者には<対比>の意識が薄い、意識がないと言えるだろう。

太郎が行くが、花子は行かない。
太郎は行くが、花子が行かない。

この二つも場面、状況によって可能だ。

太郎は行くが、花子は行かない。

これはかなり客観的な対比を示す発話となる。<対比>は意識的にも無意識でも使われる。効果を狙った<対比>はレトリックといえる。日本人でレトリック好きのひとはあまり見かけないが、また小さい子供は大人に比べレトリックを使った言い方はしない。いっぽう中国人は、小学生低学年ぐらいでもレトリックを使った言い方をする。これ多分無意識だろう。どうしてこうなるかというと、中国語は日本語の助詞に相当する語が少ないため、二文以上をつなげるのに並べ方が重要になる。並べ方とともに内容と言うか使う言葉も対比を使った表現になりがちだ。これと関係するのがつぎのような日常表現だ。

あるない 有没有? (ありますか?)、在不在?(ありますか?いますか?)
 
有没有? は<xx がありますか?>  在不在?は<xx はありますか?いますか?>で、不定、定をみごとに区別している。

多い少ない   多少  (どのくらい、数、量) 多少 銭(いくら)
大きい小さい 大小 (サイズ)

このポストは日本語の<が>と<は>の話なので、話を対比の<は>にもどす。 レトリックは元来は効果(多くは相手を説得するため)をねっらた表現だ。一方<が>のほうは主語、また場合によっては目的語を示す格助詞の純文法的機能以外に、主に

1)<が>は初めて話題にのぼることがらに使われる。

むかしむかしおじいさんとおばあさんいました。

2)実際に起こっている、起こったことを、ほぼそのまま、述べる。

太郎が(部屋から)出て行くのを見て

(あ!、)太郎が出て行く。

a) コロンブスがアメリカを発見した。
b) コロンブスはアメリカを発見した。

a)と b)どこが違う?

a) <コロンブスが>の<が>は主語を示す。<誰がアメリカを発見した?>の問いに対する正解でもある。

b) <コロンブスは>の<は>は主題を示すか?この文は<象は鼻が長い>の構造ではないので<は>は<象は鼻が長い>構造の主題を示すわけではない。<コロンブスはといえば、アメリカを発見した。>はなんとももってまわったいいかたで、ふつうはこうはいわない。<誰がアメリカを発見した?>の問いに対する回答としてもおかしい。<は>は、<誰がアメリカを発見した?>の問いに対する正解ではないが、コロンブスという主語を示すといえる。それでは上でのべた

<は>はすでに話題にのぼっていることがら(明らかに話題にのぼっていなくても対話者間で了解されていることがらを含む)に使われる。- 

はどうか。 コロンブスという人物、あるいは< コロンブスがアメリカを発見した>ことはほとんど既知と言っていい。では

コロンブスはアメリカを発見した。

はどういう意味をもっているのか?

誰かがアメリカを発見した。

はいいが

誰かはアメリカを発見した。

はダメだ。 <誰か>は不定なのだ。

ある人(不定)がアメリカを発見した。

はいいが

ある人(不定)はアメリカを発見した。

はダメなのだ。

泥棒が花子の家に入った。

はいいが

泥棒は花子の家に入った。

はどうか?既知の(すでに話題に上っている)泥棒の感じはあるが、どうも説明不足のようだ。

泥棒はかぎの掛かっていない窓から花子の家に入った。
泥棒は家族皆が寝ているとき(外出しているとき)花子の家に入った。

は問題ない。 かなりな説明になっている。もちろん泥棒は既知の(すでに話題に上っている)泥棒だ。念を押せば<その泥棒は>となる。<泥棒が>はどうか?

泥棒がかぎの掛かっていない窓から花子の家に入った。
泥棒が家族皆が寝ているとき(外出しているとき)花子の家に入った。

これも問題ないが、<泥棒は>とは意味が違う。<泥棒が>の泥棒は初回出、初めて語られているののだ。したがって既知の泥棒<その泥棒>を使った

その泥棒がかぎの掛かっていない窓から花子の家に入った。
その泥棒が家族皆が寝ているとき(外出しているとき)花子の家に入った。

は間違い。これは英語の不定冠詞、定冠詞の使い分けに通じる。英語国のひとは不定冠詞、定冠詞の使い分けをほぼ無意識にしている。日本人はこの<が>と<は>の違いを無意識にしている。

なお、英語では、日本でいうふつうの泥棒<こそ泥>、と強盗は区別があり、

こそ泥 - a stealer 
強盗 - a robber

盗人(ぬすっと)は広い意味で a srealer にちかい。 またrobber、to rob、robbed、to steal、stolen はよく聞くが stealer はあまり聞かない。明らかに暴力をふるわなくても、強引に家に入って盗みをすれば a robber と呼べるようだ。

もう一つ。形容詞の<美しい>は上で使ったので、<美しい>より格段によく使われる<きれい>を使ってみる。

1)桜(の花)がきれい。 桜(の花)がきれいだ。

桜(の花)がきれい。 - 女性が言いそう。
桜(の花)がきれいだ。 - 男性が言いそう。

<きれい>は<い>がつくが形容詞ではなくいわゆる形容動詞で、終止形は<きれいだ>。 <桜(の花)がきれい。>は<だ>が省略されたもの(語幹どめ)ともいえるが、これは<きれい>が形容詞とみなされていいるからかもしれない。

桜(の花)はきれいです。 - 女性が言いそう。
桜(の花)はきれいだ。 - 男性が言いそう。

<です>は<だ>の丁寧語で、役割としてはいわゆる断定の<だ>と同じだ。断定というのは大げさに言うと<判断の結果を示す、伝える>こと。辞書の<は>定義の<①判断の対象や叙述が、その範囲ない限られることを表す。>が参考になる。<判断>には、これまた大げさになるが<頭の中で考え、選択する>という過程があり、発話者の意見ともいえる。これは<見たままを伝える><が>とは大きな違いだ。

太郎が出ていく。
太郎は出ていく。

にも同じようなことが言える。

またまた繰り返しになるが、かきの文例を注意してよめば、以上の違いがわかるだろう。

1)太郎が行く。桜が美しい。鼻が長い。

2)太郎は行く。桜は美しい。鼻は長い。

<が>は(意識して)解説なしで事実を伝えるニュースリーポーター好みだ。一方<は>は説明が好きだ。さらには、このポストでは特に取り上げないが(調べていないので)レトリック好きとも言える。

話は少しもどって

コロンブスはアメリカを発見した。

はどういう意味を持っているのか?

これはおそらく、<コロンブスは何をしたか?>に対する回答。または

コロンブスは、長い月日をかけて、ついにアメリカを発見した。

ならいい。これは

コロンブスが、長い月日をかけて、ついにアメリカを発見した。

でもいいが、意味あいが違う。

コロンブスは、長い月日をかけて、ついにアメリカを発見した。

コロンブスが、長い月日をかけて、ついにアメリカを発見した

下線部の内容が強調される。

一つの結論

<が>は(意識して)解説なしで事実を伝えるニュースリーポーター好みだ。一方<は>は説明が好きだ。さらには、このポストでは特に取り上げないが(調べていないので)レトリック好きとも言える。

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追加

さてなぜ<係助詞>なのか?という疑問がある。これはおそらく、古文に出てくる<係り結び>と関連があろう。

こそ美しけれ

上の<こそ>が<美しけれ>と<美しい>の古文の已然形をとって文が終わる、文構造。残念ながら、これは今の日本語にはない。<こそ>は<きみこそ行ったらどうだ。>のように使うが、 <xx こそ . . . . . 已然形>という呼応はなくなっている。この呼応は有効に働く。<桜こそ美しけれ>は一種の強調文だが、前半の<桜こそ . . .>の時点で終わりの部分が想定される、という特典がある。英文法では強調構文と言うのがある。

It was Taro that Hanako saw at the station. (花子が駅で見たのは太郎だった)。

英語日本語とも Taro、太郎だ。

強調されない場合は

Hanako saw Taro at the station.

It  . . . . . that

は一種の対応だが<xx こそ . . . . . 已然形>に見られる呼応というほどのことはない。

<は>はこの<こそ>ににたところがないではない。

花子駅で見たの太郎だった。

<は>とともに<が>にも注目したい。上でも書いたが<花子駅で見たの太郎だった>はダメなのだ。またストレスの置かれ方にも注意したい。<が>にストレスはなく、<は>や<太郎>に置かれる。

強調されないのは

花子は駅で太郎を見た。

ここでも<は>が使われているが強調の意はない。

花子駅で太郎を見た。 (<が>を強調、花子とともにく<が>にストレスを置く)

とすると<花子>の強調になる。

花子は駅で太郎見た。 (<を>を強調、太郎とともに<を>にストレスを置く)

とすると(<は>に注目)、太郎の強調になる。<駅>を強調すると

花子は駅太郎を見た。 (<で>を強調、駅ともに<で>にストレスを置く)

話は少しずれたが、

太郎が( . . . . .)

で止めた場合、( . . . . .)部分は何が想像されるだろうか?

太郎は( . . . . .)

で止めた場合、( . . . . .)部分は何が想像されるだろうか?

太郎が( . . . . .)の場合は<太郎の様子(形容詞、形容動詞)、言動(動詞)そのもの>の発話、報告だ。または<が>の主語を示す働きで、明示、暗示を問わず<誰が>という問いにたいする答えを含む発話、報告だ。<が>は直截的な(考えながらではない)言い方なので<太郎が、ウムー  . . .  来た>は間が抜けた課感じになる。

一方、太郎は( . . . . .)の方は<太郎の様子、言動(動詞)についての話者の考え、意見、判断が含まれた>発話、報告だ。<は>は考えながらの発話、報告もあるので<<太郎は、ウムー . . . >となる。

また、なぜ<副助詞>なのか?という疑問がある。これはおそらく<は>の限定作用(<定>を示す)に関係があろう。限定を示す副助詞としては

だけ
のみ
ほど
ばかり

がある。以上は<は>よりも限定はがはっきりしているようだ。助詞ではないが

xx を除いては (xx を除いてが、という言い方はない。)
xx 以外は  (xx 以外が、という言い方は少ない。)

といった言い方がある。

太郎だけが行く。

とも

太郎だけは行く。

ともいえるが、どこが違うか。

これだけがいい。
これだけはいい。

ここだけが悪い。
ここだけは悪い。

はどこが違う。<これだけがいい>、<ここだけが悪い>は対象を指して言うような言い方で、その他はあまり考慮されていない。一方<これだけはいい>、<ここだけは悪い>はその他が考慮(比較)され、

これだけはいい(が、他はダメだ、よくない)。
ここだけは悪い(が、他はいい、悪くない)。

<xx ほどは>とはいうが<xx ほどが>は聞かない。

xx ほどはない。
xx ほどのことはない。
xx ほどがない。 (ダメ)
xx ほどのことがない。 (ダメ)

<xx ばかりは>がふつうで<xx ばかりが>はまれだ。

こればかりはゴメンだ。
こればかりがゴメンだ。(ダメ)
花子ばかりがほめられる。

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追記

すくなくともフランス語と中国語には簡単な構造の強調文がある。名詞(格変化なし、中国語には格変化がない)を冒頭にそのまま言い、あとから<それが、を>の意味で








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