<遊ぶ>は他動詞っぽいが、自動詞ということになっている。<xx を遊ぶ>ではなく、<xx をして遊ぶ>、<xx(遊び:たとえば、かくれんぼ、おにごっこ)で遊ぶ>、<xx(遊び道具:たとえば、こま、かるた、トランプ)で遊ぶ>、<xx(場所)で遊ぶ> というので自動詞ということになっている。
たまたま、<遊ぶ>関連で手もとの辞書(三省堂新明解6版)で<なまける>、<ずるける>、<さぼる>を調べてみたところ、なぜかすべて自動詞なっているのでおどろいた。(末尾注:参照)
<xx を遊ぶ>、<何を遊んでいるんだ?>は聞かないが
勉強をなまける。仕事をずるける。
任務をさぼる。
と言う。 それでも自動詞か?<なまける>、<ずるける>、<さぼる>が<遊ぶ>と同じようことだからか?
<遊ぶ>が他動詞っぽいのは<遊ぶ>対象があるからだろう。この対象はかなりはっきり意識されている。対象の意識という点では
本を読む。
お菓子を食べる。
水を飲む。
相手をなぐる。
まりを蹴(け)る。
などと大差ないようだ。違うのは<xx を遊ぶ>と言わないことだ。<遊ぶ>とは文法的にどういうことか?読んだことはないが<遊びのヒト>ともいうべき Homo Ludens というベストセラーがあろくらいだから、<遊ぶ>は人間にとって重要な動詞だ。
自動詞の特徴はいくつかある。前回のポスト<自動詞は自発動詞か?>ではしつこく自動詞は<自発>について検討した。
自動詞の特徴で考えられるのは、他動詞と対照させると、直接的な対象(直接目的語)がないことだろう。
<道を歩く>は、いわゆる移動動詞で、<歩く>は自動詞だが<道を>と<を>をとる特別な自動詞ということになっている。<道を歩く>は<道の上で歩く>、<道にそって歩く>ともいえ、このような場合は<を>をとらず、<歩く>自体が独立した動詞となりで、自動詞らしくなる。<遊ぶ>も<xx をして遊ぶ>、<xx(遊び)で遊ぶ>、<xx(遊び道具)で遊ぶ>、<xx(場所)で遊ぶ>の
xx をしてxx(遊び)で
xx(遊び道具)で
xx(場所)で
は付帯事項で<遊ぶ>自体が独立した動詞となる。
ヒトは放っておくと自然と遊ぶようになる。
とすると、<遊ぶ>は自発動詞となる。 自発動詞は基本的に自動詞だ。
似たようなというか、もっとシリアスな動詞に<生きる>がある。 <生きる>は<戦国時代を生きた>というような言い方はあるが、<生きる>は基本的に自動詞。これまた
ヒトは放っておくと自然と生きるようになる。
とすると、<生きる>は自発動詞となる。だがことはそう簡単ではないだろう。<生きる>と<遊ぶ>は<ある(いる)>、<なる>の二大自動詞に次ぐ重要自動詞と言えるかもしれない。看板にいつわりありだが、<遊ぶ>の文法分析は<後日再検討予定>ということにする。
(末尾注)
<なまける>、<ずるける>、<さぼる>はおもしろい動詞で、おそらく<なまける>がオリジン。<なまぐさ(ぼうず)>という言い方がある。<ずるける>は<ずれる>のもとの語<ずる(自他兼用)>に<なまける>の<ける>の語感がついたものか。
<ずれる-ずらす>の自他コンビは自他兼用動詞<ずる>由来だろう。
<さぼる>は<サボタージュ>からの造語だが、 <サボタージュ>が意識にのぼることはほとんどない。
さて<なまける>だが、 手もとの辞書(三省堂新明解6版)の解説では
”
(. . . . . . 時間を)本来すべきことをしないでむだに過ごす。
”
となっており、 <過ごす>はこの辞書では他動詞となっている。だが
週末は家で過ごした。
という言い方があり、この<過ごす>は自動詞っぽい。
週末は家で遊んでいた。
という言い方は問題ない。
sptt
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