Saturday, June 27, 2015

存在と認識の大動詞<ある>-2


このポストは以前のポスト ”存在と認識の大動詞<ある>-在(あ)る、有(あ)る、或(あ)る” の続編。ここではもう少し哲学的要素と文法的要素(定-不定、冠詞)を考えてみる。


存在と認識の大動詞<ある>。。。”  では次のように書いた。一部省略。

””
三省堂の新明解国語辞典>の<有る>の説明は、さすが言語専門家が書いたようで、<有る>を簡単に<有る-所有>では片付けていない。と言うか基本解説(下記)には<所有>という言葉が出てこない。引用が長くなるが次のようになっている。


<有る>

1)見聞きしたり、感じたり、考えたり、などすることによって、その物事がみとめられる(状態を保つ)。
2)そなわっていることが認められる(状態を保つ)。



そして、用例がかなり示してある。(状態を保つ)は <みとめられる状態を保つ>という意味だろう。

1)と2)で<みとめる>ではなく<みとめられる>としているところが、日本語らしい。 <その物事が>は翻訳調または、厳格を重んじる法律文調だが、これは、<その物事(定)>あるいは<ある物事(不定)、としたほうが、文法的により厳格 だ。<みとめる>、<みとめられる>だから漢字を使えば認識の問題だ。

1)は簡単に言うと<有る>は<モノ、コトが 認識されることをあらわす>だが、これはもう少しつっこんで考えると<モノ、コトが存在する(在る)ことが認識されることをあらわす>で<存在>がからんでくる。基本的には或いは当たり前だが、<ないモノ、コト>、<存在しないないモノ、コト>は認識できない。ここに<存在>がからんでくる。さらに、わざ わざ<...ことをあらわす>を加えたのは、言葉であるからには、<有る>は認識だけでなく 表現がともなうからだ。 かなり哲学めくが、<有る>は<モノ、コトが存在することが認識されること表現する>となる。さらに面白いのは<あらわす>は<あらわ>+<す>で、<あらわ>も<見える(認識できる)>に関連しているが、明らかに<有る>グループの言葉だ。但し<あらわす>は何も<ある>という言葉にかぎったわけではなく、 言葉一般にかかわる。
以上は簡潔にいえば、<有る>は<モノ、コトの存在を感じること>をあらわす動詞ということになる。

2) <そなわっていることが認められる(状態を保つ)>は属性、所属、組成、性質、特徴、関係(所有を含む)に関連してくるが、高所から見れば1)の<そな わっていること(もの)>に特化された用法だ。つまりは、<有る>は<モノ、コトにそなわっているの属性、組成、性質、特徴、関係(所有を含む)の存在を 感じること>をあらわす動詞ということになる。

””

プラトン、アリストテレスの哲学

プラトンは別としてアリストテレスの方は、大哲学者で後世への影響は大きいのだが、教科書では<ガリレオやケプラーの地動説がアリストテレスの天動説を打ち破る>ように書かれているせいか、アリストテレスファンはごく少ないようだ。アリストテレスはプラトンの弟子で、Japan-wiki では哲学(形而上学)については次のような解説がある。第二哲学が先にきている。

Japan-wiki <アリストテレス> (2015-06-28)


自然学(第二哲学)

プラトンは「イデア」こそが真の実在であるとした(実在形相説)が、アリストテレスは、可感的かつ形相が質料と不可分に結合した「個物」こそが基本的実在(第一実体)であり、それらに適応される「類の概念」を第二実体とした(個物形相説)。 (注)

形而上学(第一哲学)

原因について

アリストテレスは、かれの師プラトンのイデア論を継承しながらも、イデアが個物から遊離して実在するとした考えを批判し、師のイデアと区別して、エイドス(形相)とヒュレー(質料)の概念を提唱した。
アリストテレスは、世界に生起する現象の原因には「質料因」と「形相因」があるとし、後者をさらに「動力因(作用因)」、「形相因」、「目的因」の3つに分けて、都合4つの原因(アイティア aitia)があるとした(四原因説)(『形而上学』A巻『自然学』第2巻第3章等)。
事物が何でできているかが「質料因」、そのものの実体であり本質であるのが「形相因」、運動や変化を引き起こす始源(アルケー・キネーセオース)は 「動力因」(ト・ディア・ティ)、そして、それが目指している終局(ト・テロス)が「目的因」(ト・フー・ヘネカ)である。存在者を動態的に見たとき、潜 在的には可能であるものが、素材としての可能態(デュナミス)であり、それと、すでに生成したもので思考が具体化した現実態(エネルゲイア)とを区別した。
万物が可能態から現実態への生成のうちにあり、質料をもたない純粋形相として最高の現実性を備えたものは、「」(不動の動者)と呼ばれる。イブン・スィーナーら中世のイスラム哲学者・神学者や、トマス・アクィナス等の中世のキリスト教神学者は、この「神」概念に影響を受け、彼らの宗教(キリスト教イスラム教)の神(ヤハウェアッラーフ)と同一視した。

範疇論

アリストテレスは、述語(AはBであるというときのBにあたる)の種類を、範疇と して下記のように区分する。すなわち「実体」「性質」「量」「関係」「能動」「受動」「場所」「時間」「姿勢」「所有」(『カテゴリー論』第4章)。ここ でいう「実体」は普遍者であって、種や類をあらわし、述語としても用いられる(第二実体)。これに対して、述語としては用いられない基体としての第一実体 があり、形相と質料の両者からなる個物がこれに対応する。



(注)

エイドス(形相)の形相は<ぎょうそう>ではなく<けいそう>と読むそうだ。簡単に言うと<かたち>のこと。
ヒュレー(質料)の質量は簡単に言うと材料のこと。 材料の英語は material(s)、質量は物理用語では matter といのがあるが、material と matter は関連語だ。

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<見聞きしたり、感じたり、考えたり、などすることによって>は<可感的>と同じか、あるいは<考える>は<可感的>に入るのか、入らないかは問題だ。

日本人の<感覚>からすると、モノは<目に見え、存在し認識できるモノ>、コトは<目には見えないが、やはり存在し(したがって)認識できるモノ>なのだ。

1)風や声や香り(匂い)は目に見えないが感じられ、認識できる。コトというよりはモノだが100%モノとも言い切れない。形(形相)がないのだ。

2)雲や水は目に見えるので、かなりモノだが、これまた100%モノとも言い切れない。決まった形(形相)がないのだ。

3)建築材料の砂、しっくい、セメント、コンクリートは明らかに目に見えるモノだが、これまた建物ができるまでは決まった形(形相)がない。

4)料理材料の小麦粉、米、肉、魚、塩、砂糖、油も明らかに目に見えモノだが、調理ができるともとの様子が変わってしまったり(小麦粉、米、肉、魚)、見えなくなったり(塩、砂糖、油)してしまう。塩、砂糖、油は材料というよりは調味料だ。もっとも出来上がった料理の大半は決まった形(形相)がないものが多く、容器に入れないとダメなもの(ご飯、スープ)、切ったり、ちぎったりするとか形が変わるものが多い(パン、ケーキ)。

5)衣服材料の布や糸は明らかに目に見えるモノだが、これまた衣服ができるまではある程度決まった形(形相)がない。もっとも衣服は出来上がっても形を変える。

6)工作材料の紙、板きれ、金属板、糊(のり)は明らかに目に見えるモノだが、これまた工作が出来上がるまでは決まった形(形相)がない。

まだ例はあると思うが上記のうち材料に注目したい。

砂、しっくい、セメント、コンクリート;小麦粉、米、肉、魚、塩、砂糖、油;布;紙、板、金属板、糊。

材料である以外に何か共通点はないか?

答え:英文法では不定冠詞の<a, an>がつかず、複数形がないのだ。数える方法はある。

a bucket of sand, cement
a cup of wheat, rice
a piece of concrete, meat, cloth, thread, wood (plate), metal (plate)
a spoonful of salt, sugar, oil
a tube of glue

例外はあるが調味料、工作の糊)、材料はもともと形が不定で、使われて形が決まる。風、声、雲、水も不定冠詞の<a、an>がつかず、複数形がないのだ。

形は不定だが ”不定冠詞の<a, an>がつかない>” とはどういうことか?

答えは不定冠詞の<a, an>は<形が不定>の不定ではないのだ。不定冠詞の<a, an>はある特定の範疇の中にあり、形は不定ではなく定だが、特定されていないモノにつくのだ。また複数形があることから、数えられるモノにつく。

この種(範疇)の名詞(体言)は英文法では物質名詞(Material Noun)とか不可算名詞(Uncountable Noun)と呼ばれる。 日本語ではこのような見方がない。 少なくともある名詞(体言)は<不定冠詞の<a>がつかず、複数形がない>といった規則はない。


また英語やその他の西洋語ではモノとコトの区別は特にない。a thing はモノでもコトでもいいのだ。したがって、日本人は相当視覚的に物事(ものごと、モノゴト)をとらえていることになる。一方、西洋では相当理性的(あたま的)にとらえていることになるか?

自然学(第二哲学)の方にある、

アリストテレスは、可感的かつ形相が質料と不可分に結合した「個物」こそが基本的実在(第一実体)であり、それらに適応される「類の概念」を第二実体とした(個物形相説)>の「個物」は、日本語でいえば、目に見えるのでモノ、は目に見えないので日本語でいえばコトに入る。しかも目に見えないコトの方が大切、重要、さらには本質のようだ。

原因について
上記の<神>の定義は証明的で歴史的に長く大きな影響があった(今もある)だろう。 だが、この定義は日本人には受け入れ難いだろう。<質料をもたない純粋形相として最高の現実性を備えたもの(正確には、日本語では、コトだろう)>は<最高の現実性>どころか現実的でないのだ。なぜなら、<質料をもたない純粋形相>では存在しているかどうかあやしいので、認識がモノより難しいのだ。

繰り返しなるが、日本人の<感覚>からすると、モノは<目に見え、存在し認識できるモノ>、コトは<目には見えないが、やはり存在し認識できるモノ>なのだ。<神>はコトの方で、日本古来の神々は話し(神話)を通じて、神社を通じて<感覚的に><目には見えないが、やはり存在し認識できるモノ>なのだ。日本の神々は人格化されているために<いる>が普通だが、存在をとりたたって示すときは<在る>だが、<存在することが認識されること表現する><有る>でもいいだろう。

我々日本人には日本の神々がある。

の<ある>は<在る>より<有る>、性格には<在る>、<有る>を含めた<ある>だ。

<世界に生起する現象の原因>についてはきわめて大き論議なので、ここでは省略。これは現代では主に物理学に代表される自然科学の領域だ。言語、文法上は<なる>、<できる>、<つくる>などの動詞について述べることになるだろう。

<万物が可能態から現実態への生成のうちにあり>も魅力的な<世界に生起する現象>の見方だ。言語、文法上もこの見方が適応できるのではないか。


自然学(第二哲学)、範疇論

<種や類>は範疇。これらは直接目に見えるモノではなく、日本語ではコトだが、アリストテレスによれば<実体>なのだ。そして上で述べたように、目に見えないコトの方が大切、重要、さらには本質のようだ。

範疇を問う疑問表現を考えてみる。

どのような xxxx ?
What kind of xxxx ?

この疑問表現は

何(なに) ?
What ?

どの ?
Which xxxx ?
どれ ?
Which (one) ?

とは明らかに違う疑問表現だ。

具体的には

どのような本をお探しですか?
What kind of book(s) are you looking for ?

何の本をお探しですか?
What book(s) are you looking for ?

どの本をお探しですか?
Which book(s) are you looking for ?

どれですか?
Which one ?

日本語の<ような>には<種や類>、範疇さらには属性、所属、組成、性質、特徴、関係(所有を含む)に関連してくる意味がある。

どのような種類、たぐい
どのような範疇
どのような属性
どのような所属  (これはふつう<どの所属、どこの所属>になる)
どのような組成
どのような性質
どのような特徴
どのような関係

といえる。 

アリストテレスの範疇には「実体」「性質」「量」「関係」「能動」「受動」「場所」「時間」「姿勢」「所有」があるので、

どのような実体
どのような性質
どのような量
どのような関係
どのような能動
どのような受動
どのような場所
どのような時間
どのような姿勢
どのような所有

ということになるが、実体はモノ、量、場所、姿勢(様子)は目に見えもモノのようだが、その他はコトになる。


どのような xxxx ?
What kind of xxxx ?

に対する答えとしては

xxxx (形容詞、修飾句) one 
one which xxxx (説明文)
something like xxxx (例)

one は何らかの修飾はあるが不定だ。<或るxxxx>なのだ。何らかの修飾は範疇をしめす。ただし、場合によっては

the one which xxxx (説明文)でかなり<定>に近づく。
 
 
何(なに) ?
What ?

どの ?
Which xxxx ?
どれ ?
Which (one) ?


に対する答えとしては、範疇ではない答え、具体的、不定ではなく<定>の答えが必要のようだ。だがこれも、

何(なに) ?
What ?

に対しては<xxx のようなモノ、コト>と答えることもできる。

どの ?
Which xxxx ?
どれ ?
Which (one) ?


は特別で、質問者も質問を受ける者も疑問の話題についてはある限定された範囲の中にあるモノ,コトから特定のモノ、コトを選ぶことを要求する質問であることがわかっているので、答えは<定>のモノ、コトになる場合が多い。

ーーーーー

(注)これに反対する考え方に<唯名論>というのがある。

Japan-wiki <唯名論> (2015-06-28)


唯名論(ゆいめいろん、Nominalism)とは、中世西欧普遍論争における一方の立場である。スコラ哲学において、「人間」とか「イヌ」あるいは「薔薇」などは、類の概念として形相存在として実在するのかどうかという議論(普遍論争)があり、これに対し唯名論は、類の概念は実在しないと答えた。
唯名論の立場は、類の概念(普遍概念)は、名前として存在するのであり、実在するのは類の概念の形相(フォルマ)ではなく、具体的な個物(レース)、つまり個々の具体的な人間やイヌや薔薇であると考えた。これに対する考えが実念論(実在論)で、「薔薇」とか「ネコ」などの類の概念が形相として実在するとした。
西欧では、13世紀末以降に、理性信仰から独立して行くのと並行して唯名論が優勢となる。フランシスコ会士であるオッカムなどは唯名論の立場をとった。
概念やカテゴリーなどは、主観が、個物からなる対象世界を任意に切り取って、そこに外的に付与したものであると考える点で、現代の相対論的な哲学につながっており、現代ではむしろ、外的物質世界に、内在的な形相として、概念やカテゴリーの客観的根拠が実在するという科学的実在論との対比が問題となる。
唯名論を表すにvia moderna とすることがある。
 ” 

日本語の<ある>は存在の意の<在(あ)る>も<類の認識>の<有(あ)る>も、実際には明確なこの区別のない<ある>で済ますことから、日本語は<非唯名論>派か。目に見えないコト<類の概念>は<在(あ)る>、<存在する>のだ。 

上に述べたように、アリストテレスの<神>の概念は日本人には受け入れがたいとかいたが、日本語が<非唯名論>派とすると、日本語は、<在る(存在)><有る(認識)>両用の<ある>の使用からして、アリストテレスが言う<可感的かつ形相が質料と不可分に結合した「個物」こそが基本的実在(第一実体)であり、それらに適応される「類の概念」を第二実体とした(個物形相説)>の第二実体は存在し認識できることになる。<質料をもたない純粋形相として最高の現実性を備えたものは、「」>は行き過ぎで、後世の宗教家、宗教集団がこれを特に取り上げたというところだろう。

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参考:
獨協医科大学ドイツ語学科/寺門伸ドイツ語のページ
語学エッセイ(22-1): 名詞の「実在性」という観点から見た冠詞の用法(その1,2,3,4)


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