このポストは前回のポスト ”存在と認識の大動詞<ある>-2” の続きだが、<存在と認識>の論議ではなく、生成、変化の論議だ。
前回のポストで、アリストテレスを引用しながら(Japan-wiki)、次にように書いた。
”
<世界に生起する現象の原因>についてはきわめて大き論議なので、ここでは省略。これは現代では主に物理学に代表される自然科学の領域だ。言語、文法上は<なる>、<できる>、<つくる>などの動詞について述べることになるだろう。
<万物が可能態から現実態への生成のうちにあり>も魅力的な<世界に生起する現象>、言い換えれば<世の中でおこるもろもろの現象>の見方だ。言語、文法でもこの見方が適応できるのではないか。
” <可能態、現実態>の言語、文法上への適応について考えてみる。
可能態の<可能>は<できる(can)>というよりは potential の可能だ。現実の方は potential 態(の状態)のモノが生成、変化した後のモノだ。この過程が<なる>、<できる>、<つくる>だ。いづれも日本語の大動詞だ。<なる>は<やや受動的>な生成、創造、変化の意の動詞だ。<できる>は<可能>の意味と<出来て来る、生成、変化>の意味があり、曖昧(あいまい)とも、<在る>、<有る>の両義を含む大動詞<ある>に匹敵(ひってき)する大動詞とも言えそう。<つくる>は能動的な生成、創造の意の動詞だ。<やや受動的>と言ったのは<なる>は受身というよりは<自然に><なる>が主な意味だからだ。
アリストテレスに再度登場してもらう。 前回のポストで次のように書いた。
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Japan-wiki から
”
万物が可能態から現実態への生成のうちにあり、質料をもたない純粋形相として最高の現実性を備えたものは、「神」(不動の動者)と呼ばれる。イブン・スィーナーら中世のイスラム哲学者・神学者や、トマス・アクィナス等の中世のキリスト教神学者は、この「神」概念に影響を受け、彼らの宗教(キリスト教・イスラム教)の神(ヤハウェ・アッラーフ)と同一視した。
”
上記の <神>の定義は証明的で歴史的に長く大きな影響があった(今もある)だろう。 だが、この定義は日本人には受け入れ難いだろう。<質料をもたない純粋形相として最高の現実性を備えたもの(正確には、日本語では、コトだろう)>は<最 高の現実性>どころか現実的でないのだ。なぜなら、<質料をもたない純粋形相>では存在しているかどうかあやしいので、認識がモノより難しいのだ。
””
引用が多くなり、また重なるところがあるが
Japan-wiki <形相>から
”
形相
形相(けいそう ギリシャ語 エイドス)とは、哲学用語で質料に対置して使われる用語。日本語としては、「ぎょうそう」とも読めるが、哲学用語として使う時には「けいそう」と読む。
「質料」(ヒュレー)と「形相」(エイドス)を対置して、内容、素材とそれを用いてつくられたかたちという対の概念として初めて用いた人は、古代ギリシアの哲学者アリストテレスである。彼の『形而上学』の中にこういう概念枠組みが登場する。また『自然学』でもこうした枠組みで説明が行われる。アリストテレス哲学における「形相」
プラトンが観念実在論を採り、あるものをそのものたらしめ、そのものとしての性質を付与するイデアを、そのものから独立して存在する実体として考え たのに対し、アリストテレスは、あるものにそのものの持つ性質を与える形相(エイドス)は、そのもののマテリアルな素材である質料(ヒュレー)と分離不可 能で内在的なものであると考えた。
プラトンは元来イデアを意味するのにエイドスという言葉も使っていたのだが、アリストテレスが師の概念と区別してこの言葉を定義した。
大雑把に言えばプラトンのイデアは判子のようなものであるが、アリストテレスのエイドスは押された刻印のようなものである。イデアは個物から独立して離在するが、エイドスは具体的な個物において、しかもつねに質料とセットになったかたちでしか実在し得ない。
エイドスが素材と結びついて現実化した個物をアリストテレスは現実態(エネルゲイヤ)と呼び、現実態を生み出す潜在的な可能性を可能態(デュナミス)と呼んだ。今ある現実態は、未来の現実態をうみだす可能態となっている。このように、万物はたがいの他の可能態となり、手段となりながら、ひとつのまとまった秩序をつくる。
アリストテレスはまた、「魂とは可能的に生命をもつ自然物体(肉体)の形相であらねばならぬ」と語る。ここで肉体は質料にあたり、魂は形相にあた る。なにものかでありうる質料は、形相による制約を受けてそのものとなる。いかなる存在も形相のほかに質料をもつ点、存在は半面においては生成でもある。
質料そのもの(第一質料)はなにものでもありうる(純粋可能態)。これに対し形相そのもの(第一形相)はまさにあるもの(純粋現実態)である。この不動の動者(「最高善」=プラトンのイデア)においてのみ、生成は停止する。
すなわち、万物はたがいの他の可能態となり、手段となるが、その究極に、けっして他のものの手段となることはない、目的そのものとしての「最高善」がある。この最高善を見いだすことこそ人生の最高の価値である、としたのである。
” 形相はいわば形(かたち)だが、物理学的には形(shape)と力(force)は不可分の関係にある。
西洋哲学史のキホン - アリストテレス:可能態・現実態、四原因論から
http://www.western-philosophy.com/category2/aristoteles_05.html
”
たとえば、ここに石があるとする。
石は、素材として、石像にも敷石にも建物の柱にもなる“可能性”を持っている。
しかし、石が石像という“現実的な存在”になるためには、石を石像にする彫刻家が心のなかに抱いている「形相」が必要である。
そして、素材としての石が彫刻家の「形相」によって個物としての石像になるとき、そこには「可能態」(デュミナス)が「現実態」(エネルゲイア)へ変化するという「運動」(キネシス)が認められるのである。
それでは、こうした「運動」はどこから始まるのかというと、それは、変化する前の純粋な質料=「第一質料」である。
逆に、すべての質料が現実的な存在となるゴールはどこかというと、それは、いかなるものの質料ともなりえないところまで行き着いた「純粋現実態」(エンテレケイア、「純粋形相」とも言う)である。
こうした「運動」をさらに考察すると、「運動」の原因には4つあることがわかる(「四原因論」)。
「質料因」「形相因」「始動因」「目的因」である。
上記の石像を例にすると、「質料因」が石、「形相因」が像、「始動因」が彫刻家、「目的因」が石像を制作する意図に、それぞれ当たる。
さらに考察を進め、「始動因」である彫刻家を動かすものは何か、その何かは何に動かされているのか……と「運動」の原因をさかのぼって考えていくと、その果てには、“他を動かしてもみずからは決して動かないたった1つのもの”がいることになる。
アリストテレスは、この存在を「不動の動者」と呼び、神とみなしたのであった。
”
いかにアリストテレスの影響が大きかったか、はたまた後世の宗教家たち、宗教集団がアリストテレスの哲学をいかに利用したかがわかる。
さて言語、文法の方に戻る。
日本語文法には未然形というのがある。教科書や辞書の活用表では用言(動詞、形容詞、形容動詞)の語尾活用の一番目にくる。未然形は文字通りでは<未(いま)だし(然)からず>で、いわばpotential (態)形だ。言語、文法構造が違うが、英語などの西洋語や中国語には未然形のようものはなく、日本語の大きな特徴だ。
西洋語 - 仮定形は非現実をあらわすが potential 形、未然形と違う。英語にはないが他のフランス語、ドイツ語、ラテン語には接続法というのがあり、基本的には非現実をあらわすが、これまた potential 形、未然形とはすこし違う。
中国語 - <未然形>という言葉は中国語から作られている。中国語には用言活用がないので(体言活用もない、ということは<活用が基本的にまったくない>とんでもない言語だ)、<未然形>は中国語由来ではない。<未>という語自体に<未(いま)だ>だけでなく<ない>の意味も含まれている。<potential 態>を作る重要語だ。<未>という語では、結局否定されることになるが、<現実態>が想定されている。言い換えると<未>という語を使うときには話者は意識的に、または多くの場合無意識のうちに<現実態>を想定して、それを否定していることになる。
日本語
日本語の助動詞は言語、文法上の<態>とも言える話者の心理状態をあらわすので、未然形がつく助動詞を検討してみる。手元の辞書(三省堂の新辞解、第6版)の助動詞活用表では
受身、尊敬、自発、可能の助動詞 - れる、られる
使役 - せる、させる、しめる
打消(うちけし) - ぬ、ない
簡単だが、冒頭で紹介したアリストテレスの<世の中の事象の生成、変化過程の分析>を考えると示唆するところが多い。
受身 - 生成、変化させられる
<する>の受身は<さ>(<する>の未然形)+<れる>で、<される>だが、<する>の使役形は<さす>で、この未然形<させ>に受身の助動詞<られる>がついて<させられる>となる。
尊敬 - これは生成、変化とは関係ないので省略。
自発 - 自発的、自然に<xx になる> <なる>は別途検討した方がいいだろう。
可能 - 普通は<できる>の可能で、potential 態をあらわすわけではない。<できる>も別途検討。
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使役 ー 生成、変化させる
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打消(うちけし)
未然形とはいうが、<未然>の意味での打ち消しは日本語では<いまだ xx ない>、<まだ xx ない>で<いまだ>、<まだ>という副詞が必要で、しかも
いまだ xx ない
まだ xx ない
と<係り結び>になり<xx>の用言が未然形となるすこし込み入った構成だ。これは中国語は<未>の一字で<いまだ xx ない>の意をあらわすのと大きな違いだ。副詞のない<ない>は単純否定で、否定される用言の未然形が<ない>の前に来る。また<xx がない>の<ない>は日本語文法では形容詞だ。古語形は<なし>で形容詞型活用がよくわかる。
肝心なことは上記の助動詞に受身、尊敬、自発、可能;使役;打消の意味があると考えてしまうが、これらの助動詞は他の用言の未然形についてはじめて受身、尊敬、自発、可能;使役;打消の意味があらわされるということだ。未然形以外の連用形、終止形、連体形、仮定形、命令形についた場合は日本語として間違いなのだ。
例
1)五段活用動詞
未然形 - 読ま(される、れる、せる、ない)
連用形 - 読み(ます、読んで-音便))
終止形 - 読む
連体形 - 読む(とき)
仮定形 - 読め(ば)
命令形 - 読め
可能は<読める>だがこれは<読みえる>由来で、未然形ではなく仮定形<読め>+<える>が原型だろう。
2)下一段活用動詞
未然形 - 着(れる、ない、させる)
連用形 - 着(て 、ます)
終止形 - 着る
連体形 - 着る(とき)
仮定形 - 着れ(ば)
命令形 - 着(ろ)
他の活用は省略
以上は現代口語で、古語では仮定の言い方は未然形についた。
1)仮定
現代口語 仮定形 - 読めば
古語 仮定形 - 読まば
古語の<読めば>は已然形で<読んだので>のような意になる。仮定のことを言うときに<未然形>を使うというのは重要で、可能態、potential 態に関連してくる。
2)意思
手元の辞書では<未来>を示す助動詞として
う
よう
助動詞活用表に中にあり、しかも五段活用では未然形につくとなっている。
これは解説が必要だだ。
未来 <読もう>、<読も>+<う>
となるが<読も>は未然形ではない。これも解説には古語が必要で、昔は少なくとも
読まう
と書いた。発音は<読まう>(<読まむ>というのもある)から<読もう>に変わったが、書く場合は<読まう>が残った。
また<未来>というのも問題があり、<読まう>、<読もう>は意思だ。日本語では終止形が<未来>もあらわす。
この本は明日の朝読む。
明日の朝は早く起きる。
未来表現、意思表現は可能態、potential 態に関連してくるが、未来形が終止形と同じでは具合が悪い。状況がわからないと(例えば、<明日の朝>)区別がついにくいのだ。
以上から、古語では
受身、尊敬、自発、可能;使役;打消の意味の助動詞に加えて、仮定、意思の意味の助動詞は未然形についていたことになる。未然形の役割が大きすぎ、多すぎたようだ。これまた区別がついにくいのだ。これが仮定、意思の意味の助動詞が未然形につかなくなった理由の一つだろう。この辺は別途調べたいところだ。
終止形の<読む>、<起きる>と違って未然形の<読ま>や<起き>だけでは<宙ぶらりんの状態>で<定>になっていない。<不定形>ともいえるが、<宙ぶらりんの状態>は重要なことなのだ。
なにが重要かというと、次に来る未然形につく助動詞をある程度推測、期待させるからだ。
一方連用形は、<xx ます>は例外のようだが、終わらずに続く感じがある、あるいは続く感じをおこさせる。
読んで 古語は<読みて>
読みながら
読みつつ
気がつきにくいがいわゆる複合動詞の前に来る動詞は連用形だ。あたりまえだが、この連用形は終わらずにあとの動詞に続くのだ。
読みきる、読み違う、読み取る
<読み>も<宙ぶらりんの状態>の状態だが、<読ま>と違って受身、尊敬、自発、可能;使役;打消の意味の意味は推測、期待させないのだ。これまた区別が関係してくる。
英語は動詞の人称変化が簡素化してしっまているが、それでも
I (We, They) read.
He (She) reads.
の区別はある。したがって、だれが読む(to read)なのか区別がある程度できる。私は話す時も、書くときもこの<s>をよく忘れる。もっとも過去形は
I、We、They、He、She read.
で区別がなくなってしまう。もちろん現在形と過去形の区別はある。
別途検討次項
忘れないうちに別途検討しておく。
<なる>について
<できる>について
sptt
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