Friday, October 27, 2017

<身に覚えがある>の文法分析


<身に覚えがある>は刑事物語などで刑事が容疑者に

これ(が、は)、身に覚えがあるだろう?

などとして出てくる。意味は

これ覚えているだろう?

というよりは

これ知っているだろう?

に近いが100%イコールではない。 <身に覚えがある>はいかにも大和言葉的な表現だが、文法的にはどうなっているのか?実際これはかなり複雑。上記二つの日本語訳(言い換え)では<を>を使っていることに注目。

主語: 主格を示す<が>がつているので<覚え>が主語。<覚え>は<覚える>の連用形の体言化というルールによる体言(名詞)

だが

これが、身に覚えがあるだろう?
これは、身に覚えがあるだろう?

でも可能なので、やっかいだ。

<が>は格助詞なので<これ>も主語になりそうだが、<が>は<目的格>を示すこともある(*)ので、変な日本語になるが<これを身に覚えがある>とみなせる。

(*)普通の文法書にはないが別ポスト ”対格の格助詞<が>” 参照。

<みなし>が多く詐欺のようだが、ここでは簡単に<身に覚えがある>を他動詞一語とみなし、このやや長い他動詞の目的語とみなす。

<は>の場合はいわゆる主題(**)で、<これに関していえば>の意。

(**)主題というのは、いろい論議があるが

象の鼻は長い。キリンの首は長い。

の象やキリンが主題で、主語は鼻と首。だがこの場合<長い>は形容詞。

述語: <ある>という動詞。 <ある>は存在を示す動詞と言いたいがそう簡単ではない。基本的には存在というよりは<有る>の意に近い場合が多い。

八百屋で<取れたてのスイカあります>と書いてあったり、店主が大声で言ったりすれば<八百屋に存在する>と同時に<八百屋が持っている>の意もある。中国では<八百屋新鮮(的)スイカ>で<新鮮(的)スイカ八百屋>ではない。英語でも(米国に八百屋ないようだが)<There are fresh water melons.>ではなく<We have fresh water melons (to sell, which you can buy)となるだろう。 

この論議に興味のある人は別のポスト ”存在と認識の大動詞<ある>-在(あ)る、有(あ)る、或(あ)る” 参照。

さて<身に覚えがある>に戻ると、 ここには<だれ>が<覚え>を持っているのか示されていない。日本語では往々にして人の主語が出てこない。刑事と容疑者の対話では容疑者のことだが会話では<おまえ>のことで、省略しなければ

おまえ、 これ(が、は)、身に覚えがあるだろう?

これは日本語としておかしくない。だがこの日本語の場合<おまえ>は呼びかけで、主語としての<おまえ>は依然として省略されていると見た方がいい。

おまえは、 これ(が)、身に覚えがあるだろう?

この<は>も上でのべた主題(**)とみる。。

おまえは、 これが、身に覚えがあるだろう?

はすこし変だが、こういう可能性はある。

おまえは、 これは、身に覚えがあるだろう?

は<は>、<は>となりもっと変で、まずこうは言わないだろう。だが

 おまえ(呼びかけ)、 これは、身に覚えがあるだろう?

は変ではない。

<これが>と<これは>の違いもこれまた論議のあるところで、とりあえず、一般論にしたがうと

<これが>の場合、<これ>は容疑者がまったく予期していないモノ、としての発話。初回登場。
<これは>の場合、<これ>は刑事が容疑者が知っている(覚えがある)モノと想定しての発話。もちろん刑事は知っている。

<おまえは>の<おまえ>も、<これは>の<これ>も主語ではなく主題なので、変な日本語になるが<お前についていえば>、そして<これについていえば>となる。こうすると、主語は<覚え>でいいことになる。

問題は<ある>に戻って<ある>は形容詞ではなく動詞。<ある>は<xxが在る>で自動詞(英語の to be, to exist 相当)。<有る>の方はやっかいで英語の to have は直接目的語を従える他動詞なのだ。ここは勇気をもって<有る>は<to have>の意味を持つ自動詞とする。あくまで<覚えが有る>で<覚えを有る>とは言えないのだ。

さて、今回の問題は<身に>。これまでなら問題ではなく、<自分自身に>で済ましていたところだ。日本語らしくなくなるが

おまえは、 これ(が、は)、自分自身に覚えがあるだろう?

となる。意味としてはまあいいのだが、 そして若い刑事ならこういうかもしれないが、ベテラン刑事なら<xxxx 身に覚えがあるだろう?>だろう。これは<自分自身>という語が長すぎるためもあるが、どうもそれだけではない。<身(み)>は一語、一音節だが<自分自身>以上の意味を持っているのだ。<自分自身>は漢語、<身(み)>は大和言葉なのだ。

文法的には<自分自身に>の場合は<自分自身>が対象化され独立化しているので<に>は場所を示す助詞でいいだろう。だが<身に>の<に>は単純に場所を示す助詞といえるのか?

ドイツ語、あるいはイタリア語の再帰動詞が従える代名詞(英語の<me >相当)を考えてみる。英語では名詞、形容詞の格変化がなくなってしまっているが代名詞は不完全ながら残っている。

I (主格)
my (所有格、属格)
me  (目的格)
mine (所有物格?、文法教科書では<所有代名詞>となっている)

me は目的格で、英語の場合、直接目的格と間接目的格に区別がない。<身に>の<に>は間接目的格を示すように見える。一方上で説明したように、<これが>の場合は<が>が直接目的格を示す。

間接目的格は

Hanako gave a present to me. の。 <to me>で文字通り<身に>。文法的には分析的だ。

Taro gave me a present. の<me>は<me>だけで<身に>になる。文法的には内包化があるという。言い換えると<me>の中に<to>が含まれているということ。

まだ書いている途中だが(相当長くなっている)別のポスト<日本語の再帰表現>参照。


sptt




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