<xxがる>シリーズのようになっているが、別のポスト ”<xx がる>についての考察 -4” で<いやがる>、<いやがあらせ>については簡単に
”
いやがる - <いやい>という形容詞はない。<いやだ>で形容動詞扱いか。反対語では<すきがる>が考えられが、ほとんど聞かない。<いやがらせ>という厄介(やっかい)なのもある。
”
と書いた。もう少し考えてみいる。<いじめ>は社会問題になっているようだが、<いやがらせ>も好ましくない言動だ。
前に引用したが私の手もとの三省堂辞書の<がる>は<語尾、五型>(動詞活用がある語尾なのだ)として第一義は
”
いかにもそのような状況にあるという印象を与えるような言動をする。
”
第二義は
”
いかにもそうであるかのようにふるまう。
”
例として
暑がる、寒がる
強がる
悪(わる)がる
新しがる
をあげている。上記の例は上記の説明にあうが、他の例では上記の説明しきれないものがあり、前に調べてみた。<いやがる>、さらには<いやがらせ>は説明しきれない例だ。<いやがる>は上記の説明を使うと
第一義は
いかにも<いやだ>という状況にあるという印象を与えるような言動をする。
第二義は
いかにも<いやで>あるかのようにふるまう。
具体的な例として
母親が太郎に
おまえ、花子さんとの見合い、そんなにいやがらなくも、いいじゃないか。
実際のところ、状況にもよるが、一般的には太郎は<<いやだ>という状況にあるという印象を与えるような言動ををしている>でも<いかにも<いやで>あるかのようにふるまって>いるわけでもないだろう。太郎が<いやがっている>のは<印象をあたえる>、<xxxのようにふるまう>などの作為はないだろう。単純に<いやなのだ>。まあ母親から見ればこのような<作為>があるとみているのかもしれない。つまり、実際は<いや>ではないが、そのようにふるまっている、とみているのだ。最後の箇所は気がつきにくいが(文法、ひいては言語分析)肝心なところだ。言い換えると<母親の見方、想像>がかなり強く反映された(主観的)発話なのだ。
さて<いやがらせ>とは、これまた手もとの辞書によると
”
人のいやだと思うことをわざとしたり、言ったりすること。
”
(<したりすること>は重複だが、それはそれとして)と<いやがらせ>は<いやがらせる>の連用形体言(名詞)用法だが<<いやがらせる>というのは聞いたことがない。
いやがらせるな!
ではなく、
いやがらせするな!
いやがらせはするな!
いやがらせをするな!
で、もっぱら体言の<いやがらせ>が使われる。
<いやがらせる>は使われないようだが意味を考えてみる。
A:被害者-<いやがらせ>を受ける人
B:加害者-<いやがらせ>をする人
<いやがらせる>は
Bが(は)Aをいやがらせる。
と使える。これだた使役、というよりは強要(むりやり xx させる)で
Bが(は)Aをむりやり<いやがる>ようにする。
でもいいが、日本語らしくない。
Bが(は)むりやりにAが<いやがる>ようにする。
使役が<させる>とすると
Bが(は)Aをむりやり<いやがる>ようにさせる。
Bが(は)むりやりにAが<いやがる>ようにさせる。
となるが、おかしい。
かなり複雑だが<いやがらせる>は使われないのだ。
<いやがる>と<いやがらせ>の違い。
<いやがる>は繰り返しになるが辞書の(定)義では
第一義は
いかにも<いやだ>という状況にあるという印象を与えるような言動をする。
第二義は
いかにも<いやで>あるかのようにふるまう。
で、このような場合もあるだろうが、<いやがらせ>を受けたときの反応としてはおかしい。実際の反応はたいていの場合<いやだ>という感情は本当のもので作為的(印象を与えるような言動、xx のようにふるまう)ものではない。<いやがらせる>方も作為的なニセモノの<いやがり>ではなく、本当の<いやがり>を求めるだろう。
使役の助動詞としては<す>、<さす>、<せる>がある。
行かす
行かさす
行かせる
使役の助動詞と書いたが<許可>の助動詞ともいえる。いずれも問題ない。いっぽう
いやがらす
いやがらさす
いやがらせる
は何かおかしい。<おかしい>わけは<がる>にあるといえよう。
辞書ノ定義に少し手を加えてみる。sptt-定義
sptt-第一義は
はたから見て、いかにも<いやだ>という状況にあるという印象を与えるような言動をする。
sptt-第二義は
はたから見て、いかにも<いやで>あるかのようにふるまう。
これは<太郎と母親>のはなしでも少しふれた。こうすると
sptt-第一義は
はたから見て、いかにも<いやだ>という状況にあるという印象を与えるような言動をする。
sptt-第二義は
はたから見て、いかにも<いやで>あるかのようにふるまう。
こう解釈すると、いやがらせを受けてている人の本当の状況(感情)は関係がうすれ、はたから見て、<いやだ>という状況にあるという印象を与えるような言動をしている、いかにも<いやで>あるかのようにふるまって、見えればいいのだ。もちろん<はた>のなかには<いやがらせ>をしている人もふくまれる。
話が複雑になるが、ダブル<がる>を考えてみる。
BはAに<いやがらせ>をして、Aが<いやがる>のを見て<おもしろがる>やつだ。
ここではBが<おもしろがる>場面をかんがえてみる。
BはAに<いやがらせ>をして、Aが<いやがる>のを見て本当に<おもしろ>と感じる邪悪な(意地(いじ)のわるい、いじわるな)人間の可能性がたかい。
第一義は
いかにも<おもしろい>という状況にあるという印象を与えるような言動をする。
第二義は
いかにも<おもしろい>ようにふるまう。
の見せかけの、作為的な<おもしろい>をしているわけではない。だが<はたから見ると>見せかけの、作為的な<おもしろい>をしている、のだ。いいかえると、はたからは<見せかけの、作為的な<おもしろい>をしているように見えるのだ。実際<はた>の人はBの本当に状況(感情)はわからない。
このように<はたのひと>をほとんど無意識的に背景に置いた<がる>表現では
いやがらす
いやがらさす
いやがらせる
は何かおかしくなるのだ。
sptt
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