Tuesday, March 26, 2019

<知る>と<わかる>はどこが違う。


<知る>と<わかる>はどこが違う。

<知る>は to know、<わかる>は to understand となるが、話はそう簡単ではない。特に日本語の場合は

1)<xx を知る>は少しあらたまった感じで<敵を知り、己(おのれ)を知れば百戦危うからず。>とうのがある。

2)一方わずかな違いだが<xx を知っている>は日常よく使い特にあらたまった感じはない。<xx を知る>と<xx を知っている>はどこがちがう? こうは書いたが、実際の使われ方ををみると <xx 知っている>が圧倒的に多い。この<xx 知っている>は一般化して<xx xx ている>構文ともいえ、独自の日本語表現とも言えそうなので、次回のポストで取り上げる予定。

3)<xx がわかる>も<xx を知る>にくらべてはるかに日常よく使う。<xx をわかる>とはいわず、これは文法違反だろう。では to understand this problem はどう言うかというと、<この問題をわかる>ではなく、<この問題を理解する>ですますようだ。したがって to understand は<わかる>ではなく<理解する>なのか?

<敵を知り、己(おのれ)を知れば百戦危うからず。>を言い換えてみる。

a)敵を理解し、己(おのれ)を理解すれば百戦危うからず。
b)敵がわかり、己(おのれ)がわかれば百戦危うからず。

b) は後半も<危うからず>とそうかしこまらず

b')敵がわかり、己(おのれ)がわかれば百戦負けなし。

とすると、語呂はいいし精彩が出ないか?<xx がわかる>の方が<xx を知る>よりも日本人にしっくりくるようだ。

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話は初めにもどって

1)の<xx を知る>と2)の<xx を知っている>の違いだが、2)の<xx を知っている>は

おれは太郎をよくを知っている。
<よく知る>はだめだが否定の<よく知らない>は問題なく、むしろ<よく知っていない>とはあまり言わない。

花子は礼儀をよく知っている。
美代子はいざという時のふるまいをよく知っている。
次郎は困った時の対応を知らない。

<知る>はどちらかというと場個々の場面に関係しない一般的な言い方、あるいは<敵を知り、己を知れば>のようにこれからのこと、あるいはすべきことを表現する。一方<知っている>は過去に<知る>ことがあり、その状態が現在まで続いていることを表現する、いわば英語の現在完了だ。一方英語には to have known という現在完了はなく、to know ですます。つまりは英語の to know は

1) 個々の場面に関係しない一般的な言い方、あるいはこれからのこと、すべきことを表現する。
2) 過去に<知る>ことがあり、その状態が現在まで続いていることを表現する。

の両刀使いだ。これは英文法の本や少し詳しい辞書には解説がある。to be knowing はダメというにのも文法書や辞書にあった気がする。

花子は礼儀をよく知っている。
美代子はいざという時のふるまいをよく知っている。 

の例文は知識として知っているというよりは<xx のし方を知っている>、<xx のし方をこころえている>で英語でも to know how to drive のたぐいだ。これも過去に<知る>ことがあり、その状態が現在まで続いていることを表現するに相当する。また否定の場合の

次郎は困った時の対応を知らない。

も<次郎は困った時の対応を知っていない>は間違いではないが、あまりこうは言わない。

さて、堂々めぐりのようだが<xxがわかる>にもどって、以上の例文は<xx がわかる>を使うと

おれは太郎がよくわかっている。
花子は礼儀がよくわかっている。
美代子はいざという時のふるまいがよくわかっている。
次郎は困った時の対応がよくわかっていない。

でほぼ同じような意味が伝わるが、ニュアンスが違う。 好みにもよるが、ここでも<xx がわかっている>の方が<xx を知っている>よりも日本人にしっくりくるのではないか。このニュアンスの違いはどこからくるのか。おそらく、<xx を知る、知っている>は他動詞、<xx がわかる、わかっている>は自動詞だからだろう。英語はこのへんはいい加減なところがあり、

I know it. I understand it.  は目的語があるので他動詞。
I know. I understand. は目的語がないので自動詞。
I know about it. も直接目的語がないので to know は自動詞。

ということになっている。

上の<自動詞だからだろう>は推測で、理由がない。理由を考えて見る。実をいうと、このポストを書き始めたのは次の文に再度出くわしたからだ。

智人者智,自知者明。(老子)

さらに実をいうと、 これについては別のポスト" Lao Tzu (Lao Zi) 老子. Its rhetorics, paradoxes and riddles " <足るを知る者心豊かなり (道徳経 第33章>で書いている。


足るを知る者心豊かなり (道徳経 第33章)

原文は

智人者智,自知者明。勝人者有力,自勝者強。知足者富,強行者有志。不失其所者久,死而不亡者壽。中國哲學書電子化計)で道徳経の第33章にある。
 ”

さらに<智人者智,自知者明。> についてもそれなりに調べ考えて次のように書いている。



実はこのブログ<Rhetorics of Lao Tze>を書き始めたのはこの第33章の出だしの<智人者智,自知者明>のイタリア語版をFace Bookで見たのがきっかけになっている。次のようなコメントを書いた。

Chi conosce gli altri è sapiente, chi conosce se stesso è illuminato.

Lao Tzu


The second half is difficult to understand. When considering the first half which is, in a way, superficial and worldly the second half states the essence in life. Those who illuminate do not talk much about the other people and are busy in polishing themselves.

The second interpretation
The first half is commonly found while the second half is seldom found so it illuminates.

The third interpretation
The first half is as it says. But the second half is not as it says as it is, not easy to do. Lao Tze did not asked us  not to try to do difficult things. Instead he advised us to be as you are. So being as we are is the key to be illuminated from inside, illuminato dentro se stesso.


特に<智人者智,自知者明>の後半が難しい。そこで原文にあったて見たくなった。今の<すぐにつながる>インターネット時代ではすぐに見つかる。さらについでに<知足者富>の原文もみつけた。

後半部のイタリア語訳 chi conosce se stesso è illuminato. は表面的な訳。ここは表面的な訳では意味が通じないと言っていい。

智人者智,自知者明。

文法的には<智人者智>は<人を知る者は智>でChi conosce gli altri è sapiente すなわち<他人を知るものは賢人>でいいが、後半は<知自者明>ではなく<自知者明>なのでchi conosce se stesso è(知自者)にならない。<智人者智>と対比させると知自者明>が正しく、こう解釈したくなる。これに続く<勝人者有力,自勝者強>も同じようなことが言え、<勝人者有力,勝自者強>なら<他人に勝つ者は力が有る(外面的な、外から見える力がある)、自己に勝つ者は強し的な、外から見えない真の強さがある)となり意味が通じるが、原文は<勝人者有力,自勝者強>なのだ。<自強>という言葉が中国語にある。台湾の汽車の名前にあったような気がする。自(みずか)らを強める>というよりは<本質的に、内部から強い、強くなる>といった意味だろう。では<自知者明>はどういう意味なのかを問いたくなるが、一体人は<おのれを知る>ことができるのか?という大問題がある。これは哲学的問題ともいえる。

孫子
彼を知り己を知れば百戦殆うからず

ソクラテス
汝自身を知れ。 出典: ソクラテス 名言. この名言はソクラテスが行動上の標語としていたほど重要な名言である。 自分が無知であることを自覚し、その自覚を持って真の知を得て、正しく行為せよという意味だ。(http://u-note.me/note/47504450)

孫子の方は哲学的というより実践的で、簡単ではないができそうながする。第三者が見るようにできるだけ客観的に自己を見ようと努力する。

ソクラテスの方は哲学的で、特に<自分が無知であることを自覚>するのは努力すれば、あるいは心の持ちようによっては可能だ。老子の<自知者明>の解釈に応用できそう。<自知者明>は<おのずから(自然に)知る者は明るい>と解釈できる。<明るい>は<暗い>の反対でいいだろう。<おのずから(自然に)>は、無理して、努力して知ろうとするのではなく、人にもともとそなわっている<知る能力>で、といった意味だ。これは無為につながる。つまりは<自知者明>は<無為で知る者は明るい>となる。これで老子の言葉の意味に近くならないだろうか?

中国の文革時代だかに<自己批判>というのがあった。多くは外部から強制的に<自己批判>をさせる場合が多かったようで、これは本末転倒だろう。時代により中国人もいろいろある。だがこの場合意味は多分に<自己を批判する>、現代中国語では<自己批判>が正しいか。



引用が長くなったが、この部分は前から気になっていたことになる。さて、これを文法的にとらえるとどうなるか?

イタリア語の場合 conoscere は<誰々を知っている>の意で使い、普通の<知る>、<知ってる>は sapere。sapere はso、sai、sa、sapiamo、sapete、sanno と不規則人称変化し、いわばこなれた、日常よく使われる動詞なのだ。<わかる>、<理解する>は capire でこれも不規則人称変化でこなれた、日常よく使われる動詞。 conoscere も sapere も capire も他動詞。対象が意識されて自己に対する関係は表面上出てこない。イタリア語には再帰動詞(用法)というのがあ、内容はたいそう複雑だが、動詞の内容が自分に何らかの形で帰って(もどって)くるような用法なのだ。念のため conoscere も sapere も capire もやや特殊な用法はあるが、基本的に再帰用法はない。したがってソクラテスの
<汝自身を知れ。>は<conosce (sapere, capire) se stessoとなるようだ。これは<おのれを知る>(他動詞)で<おのれがわかる>(自動詞)ではない。他動詞は対象に対する目に見えない作用、力のようなも感じられるが(<ものを感じるとは少しちがう)、自動詞は直接的な対象がないのでこれがない。繰り返しなるが

I know it. I understand it.  は目的語があるので他動詞。
I know. I understand. は目的語がないので自動詞。
I know about it. も直接目的語がないので to know は自動詞。

の違いに似ている。

ところが、前にもいくどか取り上げたが文法上助詞<が>には主格以外に対象(対格)を示す用法がある。

Japan-wiki (as of 01-May-2013)

格助詞
  1. 主格であることを表す。
    • 来る。
  2. 好悪要求能力などの対象であることを表す。
    • 私は、ご飯食べたい。
    • 彼女は、ピアノうまい。

Japan-wiki (30-March-2019)

格助詞

主に体言に付いて、文の中での意味関係()を表す。格助辞、格のくっつきとも言う。

最も基本的な格助詞である。動作状態主体/要求願望対象を示す。 咲く。/水飲みたい。 名詞または名詞に準じる語に付く。
"

xx が好きだ(嫌いだ)
xx がほしい (xx を欲する、欲しがる)
xx ができる

<わかる>は能力を示すといえる。<好きだ(好き+だ)>、<欲しい>は動詞ではない。<できる>、<わかる>は動詞か?<xx る>の形、活用からはれっきとした動詞だ。では自動詞か。純自動詞は

太郎が(は)来る。
花子は(が)学校へ行く。 - 学校へ>は>行く>の対象ではないのか?
授業が(は)始まる。
アリが(は)動く(動きまわる)。  ー 地面(の上)を動く(動きまわる)>で<を>をとる。
地球は(が)まわる。 - 自転は問題ないが、<地球は太陽(のまわり)をまわる>でl<を>をとる。

右に書いたような疑問があるが<来る>、<行く>、<始まる>、<動く(動きまわる)>、、<まわる>は自動詞とみなされている。一方<初める>、<動かす>、<まわす>は他動詞だ。だが以上の例文の太郎、花子、授業、アリ、地球は動詞内容の<対象>というよりは<主体>だ。<わかる>は次のように使われる。

花子は授業がわかる。
アリは(夏は見るが冬はみないので)季節がわかるのか?

<花子>、<アリ>は主体で<授業>、<季節>は対象だ。こういう文構造なのだ。

<わかる>は<分けられる>が元(もと)のようだが、<判別できる>、<理解できる>で意味としては<できる>(能力、可能ではない)がからんでいる。

花子は授業が理解できる。
アリは季節が判別できるのか?

<できる>、<わかる>は動詞にはつかないのいので、英文法の助動詞にはならないが、可能、能力の助動詞 can に似たところがある。一方日本語の<断定の助動詞><だ>は動詞にはつかないが(来るだ、行くだ、動くだ、寝るだ、起きるだ、食べるだ、読むだ、書くだ、わかるだ、はダメ)助動詞扱いになっている。助動詞 can は意味的には可能、能力のモーダル性があり、形態上は動詞にはつく、というのが特徴だ。<できる>、<わかる>は意味的には可能、能力のモーダル性があり、形態上は対象の助詞として<を>ではなく<が>を取るのが特徴だ。

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ともっともらしく書いてきたが、これは英文法にとらわれ過ぎ。木を見て森を見ずのたぐいだ。下記の例はごく一般に使われる。

花子は英語が話せる。
太郎は漢文が読める。
嘘(うそ)で人がだませる。
金(かね)で人があやつれる。

以上は他動詞で<を>をとって

花子は英語を話す。
太郎は漢文をよむ。
嘘(うそ)で人をだます。
金(かね)で人をあやつる。

と言える。<話せる>、<読める>、<だませる>、<あやつれる>と能力、可能の動詞では対象をあらわすのに<が>を使う。 <話せる>、<読める>、<だませる>、<あやつれる>は

<話す>の仮定形<話せ>+<る>
<読む>の仮定形<読め>+<る>
<だます>の仮定形<だませ>+<る>
<あやつる>の仮定形<あやつれ>+<る>

でいいだろう。否定形は

<話す>の仮定形<話せ>+<ない>
<読む>の仮定形<読め>+<ない>
<だます>の仮定形<だませ>+<ない>
<あやつる>の仮定形<あやつれ>+<ない>

と規則的だ。

自動詞の場合はどうか。

ここは静かなのでよく眠れる(休める)。
ここは車が来ないので安心して遊べる(歩ける)。

自動詞は動詞の対象がないので<が>はない。

つぎのような言い方はどうか。

ここでは魚がよく釣れる。
ここは見晴らしがいいので富士山がよく見える
ここは静かなので鳥の鳴き声がよく聞こえる。

<よく>は動詞そのものというよりは<釣れる>、<見える>、<聞こえる>の能力、可能の意味を修飾する副詞だ。したがってもとをたどると

魚を釣る
富士山を見る
鳥の声を聴く

となる。能力、可能形は、簡単に

魚が釣れる
富士山が見える
鳥の声をが聴ける、聞こえる

で<が>がくる。

例は少ないが、以上から

が + 動詞の仮定形+る

の構文が成り立ちそうだが、もう少し調べてみる。

日本語では音韻変換の自動詞-他動詞のペアがやたら多い。


上(あ)がる - 上げる
幕が上がる
幕をあげる - 幕が上げれない、あげられない。
<上げる>は下一段なので、上げない、上げて、上げる、上げる、上げれば(仮定形)で<幕が上げれない>が正しいことになる。


開(あ)く - 開ける
戸が開く
戸を開ける - 戸が開けれない(開けられない、開からない)
<開ける>は下一段なので、開ければ(仮定形)で<戸が開けれる、開けれない>が正しいことになる。

起きる - 起こす
事件が起きる
事件を起こす - 事件が起こせる

<起きる>は上一段活用だが<起こす>は五段活用。 起こさない、起こして、起こす、起こす、起こせば(仮定形)。

固まる - 固める
基礎が固まる
基礎を固める - 基礎が固められる(能力、可能とは限らない)、こうすれば基礎が固められる(可能)。だが<固める>の仮定形は<固めれ>なので<基礎が固めれる>が正しいことになる。また<固める>は下一段なので、固めれば(仮定形)で<基礎が固めれる、固めれない>が正しいことになる。

閉(し)まる - 閉(し)める
戸が閉まる
戸を閉める - 戸が閉められない(能力、可能)。<戸が閉まらない>は現状とも可能ともいえる。
<閉める>は下一段なので、閉めれば(仮定形)で<戸が閉めれる、閉めれない>が正しいことになる。

染まる - 染める
この生地はそまる。 (これですでに可能の意がある)
この生地(きじ)を染める - この生地が染めれる(染められる)、はダメだ。この生地は染めれる(染められる)、ならいい。
<染める>は下一段なので、染めれば(仮定形)で<この生地は染めれる、染めれない>が正しいことになる。

 立つ(建つ) - 立てる(建てる)
家が建つ
家を建てる - ここは家が建てられる(建てられない) - 許可
<建てる>は下一段なので、建てれば(仮定形)なので<ここは家が建てれる>が正しいことになる。

能力、可能にくわえて<許可>がでてきた。<許可>はモーダルアスペクトの一つだ。

たまる - ためる
金がたまる。
働いて金(かね)をためる - 働けば金(かね)がためられる。
<ためる>は下一段なので、ためれば(仮定形)で<働けば金(かね)がためれる>が正しい

とまる - とめる
車がとまる
ここは車(くるま)をとめる - ここは車がとめられる
<とめる>は下一段なので、とめれば(仮定形)で<ここは車がとめれる>が正しい

流れる - 流す
ゴミが流れる
ここはゴミを流せない - ここはゴミが流せる 

燃(も)える - 燃やす
木は燃える (これですでに可能の意がある)
ここで木を燃やす - ここで木が燃やせる (これは許可の意)

下一段で少し問題がありそうだが、

が + 動詞の仮定形+る(ない)

は文法ルールといえる。さらに強調したいのは

 + 動詞の仮定形+る(ない)

の構造で、これは<係り結び>と言える。(これは別のポストで独立して書く予定)。







sptt



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