最近譲歩表現をいろいろ調べているうちに<も>が大活躍しているのを発見した。<も>は列挙や追加の副助詞というのがまず思い浮かぶが、譲歩の観点からすると<も>は日本語の大助詞だ。<も>なしでは譲歩のレトリックが大きく限られる。見方を変えると、日本語は意識したレトリックはあまり活躍しないが無意識のうちにレトリックを使っている。もっともよく使われる無意識のうちのレトリックは譲歩で、この譲歩表現に<も>がきわめてよく使われる。念のため<も>を手もとの辞書(三省堂新明解)で調べてみた。いろいろ書いてあるが、どうも的を得ていないというか、少なくとも譲歩の働きについては明確に書いていない。 もっと掘り下げが必要のようだ。もっとも辞書の限られたスペースを考えると、ベストを尽くしているのかもしれない。辞書の解説と例文は次の通り。
1) 類似した事柄を列挙したり、同様の事柄がまだあることを言外に表わしたり、する。
あなたが行けば、わたしも行く本も買った
菊もかおる季節
あれもこれもと願う親心
海も山も人で一杯
雨もふるし、風も強い
<類似した事柄を列挙したり、同様の事柄がまだあることを言外に表わしたり、する。>は<たり>があるため明確な説明ではない。<たり>は余韻を残し<同様の事柄がまだあること言外に表わす>、または無意識のうちに<表わしていまう>。<たり>の辞書の解説は大いに参考になるのだが、後回しにする。
例文の中には<類似した事柄の列挙>がないようだ。
AもBもCもDもみ同じようなものだ。AもBもCもDも類似している。花子もいく。太郎も行く。美代子もいく、次郎も行く。
花子も太郎も美代子も次郎も行く。
が<類似した事柄の列挙>の例だ。
あなたが行けば、わたしも行く
は列挙とは言いがたい。もっと複雑だ。
<類似した事柄を列挙したり>で <類似した事柄の列挙>以外では
類似した事柄を追加するがある。
花子に加えて、太郎も行く。
<あれもこれもと願う親心>と<海も山も人で一杯>の<も>は列挙にみえるが、単純な列挙ではなく同様の事柄がまだあることを言外に表わし>ている。
<同様の事柄がまだあることを言外に表わす>はレトリック話法ではきわめて重要。<言外に表わす>だけに言葉で説明するのは難しい。聞き手の個人差もある。<あなたが行けば、わたしも行く>は言外に表す内容はないようだが、その他は言外に表わす内容がある。
本も買った - 本以外の買ったものがあることを言外に表わす。
菊もかおる季節 - これは少し難しい。菊以外にかおるものがあることを言外に表わしているだろうか?<バラがかおる、クチナシがかおる、キンモクセイがかおる>を言外に表わしているだろうか?
<菊もかおる季節>は<菊がかおる季節>、少し詩的に<菊かおる季節>と言えるが、<菊もかおる季節>は<菊かおる季節>に相当近い。上で<たり>で少しふれたが<余韻を残す>レトリックと言えないか。<余韻を残す>レトリックは歌によくつかわれる。<菊がかおる季節>は明確、間違いなくていいが、余韻が残らない。この明確さをさけて余韻を残す手法は詩や歌の歌詞に多い。多分作詞家も無意識のうちにやっているのだろう。
例:
雨にも負けず、風にも負けず
嵐も吹けば、雨も降る
海も荒いが、気も荒い
若い希望も夢もある
なだれは消える花も咲く
意地に裂(さ)かれる恋もあり、夢に消される意地もある (これは<やまとことばじてん>の方の<傷だらけの人生>というポストで詳しく論じている)
(追加予定)
あれもこれもと願う親心
は<類似した事柄(子どもに対する願い)の列挙>と言えないこともないが、<あれもこれも>は一種の熟語で<あれとこれ>に限らずいろいろあることを示唆している(言外に表わしている)。
あれも欲しい、これも欲しい; あれもこれも欲しい
あれやこれやで忙(いそが)しい、という表現もある。
さらには
だれもかれも
どこもかしこも
どれもこれも
みごとな整然さだ。
海も山も人で一杯
は念を押して<海も山も、どこもかしこも、人で一杯>と言い換えられる。
も<海、山>に限らずどこも(実際はある特定の場所)人で一杯といったニュアンスがある。したがって<海も山もどこも(実際にはある特定の場所)人で一杯>で、上の<あれとこれ>に限らずいろいろあることを示唆している(言外に表わしている)、と同類だ。上の辞書にある<雨も降るし、風も強い>
は上にあげた
雨にも負けず、風にも負けず
嵐も吹けば、雨も降る
とは少し違う。これは<雨が降るのに加えて、風も強い>で打ち切れる。 たとえば<カミナリも鳴る>を付け足せるが、<カミナリが鳴る>ことを示唆している(言外に表している)わけではない。これは、追加、添加、<おまけ>の<も>と言える。だが後半の<風も強い>の<も>はこれでいいが前半の<雨も降るし>の<も>は何か?<雨が降るし、風も強い>、<雨は降るし、風も強い>はなんとなく語呂が悪いので語呂合わせの<も>か。
さて、例を一つ一つ検討していると大事なことを見逃しそうだ。大事なことは<1) 類似した事柄を列挙したり、同様の事柄がまだあることを言外に表したり、する。>の下線部分だ。
さて、始めの方で
<たり>は余韻を残し<同様の事柄がまだあること言外に表わす>、または無意識のうちに<表わしていまう>。<たり>の辞書の解説は大いに参考になるのだが、後回しにする。
と書いたので<たり>を調べてみる。 手もとの辞書の<たり>の解説。
ある動作を例示的にあげ、関連する他の場合を言外に暗示することを表わす。
<たり>は主に動詞につくので<動作>が使われている。この<たり>を頭の隅に置いて
1) 類似した事柄を列挙したり、同様の事柄がまだあることを言外に表わしたり、する。
を読み直すと
<も>は<言外に表わすこと>を<言外に暗示する>などとなる。
でわけがわからなくなる。
面白いといえば面白い。
手もとの辞書の解説2)は
2)極端な場合を取り上げて、そのものが例外でないことを示す。(例をあげ他はもちろんということを示す)
子どもにもわかる
猿も木から落ちる
あいさつもしない
わたしでもできますか
どこも満員だ
何もない
一つもない
一度も来ない
<極端な場合を取り上げて、そのものが例外でないことを示す>の<そのもの>が何だかよくわからないし、例文で何が<極端な場合>なのかもよくわからない。カッコ内の<例をあげ他はもちろんということを示す>の方がわかりやすい。<示す>というよりは<暗示する>だ。この部分は重要で、言い換えて
例をあげ他はもちろんということを暗示する
とすると<他があることが前提で>1)の<同様の事柄がまだあることを言外に表わす>と同じことと言える。これが<も>の深い意味なのだ。
子どもにもわかる
猿も木から落ちる
あいさつもしない
私でもできますか
以上は<子ども><猿>、<あいさつ>、<私>があげらえている例で<他のものはもちろん>の<他>は言葉で示されておらず、暗示されるのだが、容易に察しがつく。だが場合によりけりで、<暗示されること>はいろいろだ。これが暗示の作用で、余韻ともなる。定ではないがまったく不定というわけでもない。
子どもにもわかる -> 大人にわからないはずはない。大人のお前にわからないはずはない。
猿も木から落ちる -> 佐藤のような達人でも失敗することがある。
あいさつもしない -> (あいさつもしないくらいだから)電話してくるはずはない、謝(あやまり)りに来るはずはない。
私でもできますか -> これは上の三例と少し違う。<私でもできます>なら -> もちろんあなたにはできます、だれでもできます、などが暗示される。 では<私でもできますか?>は何なのか?<もちろんあなたにはできますか?>、<だれでもできますか?>の暗示ではない。<私>は極端な場合でもない。<私>を例としてあげ、<他はもちろん(できます)か?>ということを暗示するわけでもない。これは先取りすることになるが辞書の3番目にでてくる
3)予期される限度をこえていたり、限界に達していたりすることを表わす。
があてはまりそうだ。この説明でもまた<たり>がでてくる。堂々巡りになりそうなので、次へ進む。
どこも満員だ
何もない
一つもない
一度も来ない
以上の四つは<例をあげ他はもちろんということを示す>では説明できない。<どこ>、<何>、<一つ>、<一度>は例ではない。根本的に違う。
どこも満員だ
の<どこ>は例にならない。 <どこ = where>は疑問(代名)詞、または不定、不特定(代名)詞だ。どこ = where の他に
何=what、だれ= who、どれ = which、いつ= when、どう(どのように)= how
がある。疑問(代名)詞は疑問文に使われるが、当然ながらまだ定まっていないので不定、不特定だ。これらに一語、一音節ながら<も>がつくと、俄然(がぜん)様子が変わる。
どこも、どこにも、どこでも、どことも
なにも、なんにも、なんでも、なんとも
だれも、だれにも、だれでも、だれとも
どれも、どれにも、どれでも どれとも
いつも、(いつにも)、いつでも、いつとも
(どうも)、どうにも、どうでも、どうとも
これだけでは、整然さはわかるが、意味がよくわからない。例文を作って意味をチェックすると、<も>の特性がかなりわかる。
<どこも満員だ>にならうと
だれも間抜けだ
いつも間違える、いつも正しい答えを出す
<何もない>にならうと
どこもない。わるいところはどこもない。
(だれもない) だれもいない。だれもしない。
(どれもない) どれでもない。
いつもない、いつもいない。
どうもない、この機械はどうもない(この機械の具合はどうもない)。胃の調子はどうもない。
<ない>がつくので否定だが、前面否定で例外がない。 見方をかえると、<例外がない>ということは言外に何かを暗示することがない、余韻を残さない、ということなのだ。言い換えると<も+ない>で<言外に何かを暗示する、余韻を残す><も>を否定、すなわち全面否定することで、きわめて明確、整然としている。きわめて理論的とも言える。しつこくなるが、タイトルの ” 譲歩の大助詞<も>” にからめてさらに言い換えると
<言外に何かを暗示、余韻を残>したり、一歩譲って例外を認める譲歩の<も>を否定すると、全面的にこれらの譲歩の意味が消える。
といえる。
一つもない
一度も来ない
さて次は上で先取りした3番目
3)予期される程度をこえていたり、限界に達していたりすることをあらわす。
上にあげた2)にある例
私でもできますか
をもう一度考えて見る。これは<私もできますか>に<で>の一字を加えたものだが意味はまったく違ってくる。したがって<も>と言うよりは助詞熟語の<でも>のはたらきだ。日本語では<でも>は大活躍する。辞書でも<でも>で独立した説明がある。この辞書の説明を利用して<でも>については少し前のポスト<"even" は英語の奇妙な発明>で詳しく検討している。
さて辞書の3)の説明は、繰り返しになるが
予期される程度をこえていたり、限界に達していたりすることをあらわす。
例文は
雨は三日も降り続いてようやくやんだ
なにを思ったのか、私に十万円もくれた
少なくも千円はある
高くも一万円以上はしない
一週間もあればできます
最初のニ例は<予期される程度をこえて>で説明でき<予期>が必要。
第3例以下は<予期>は関係ない。<程度をこえている>は言い換えると<以上>、英語ではややこしい言い方があるが(not less than か)、数学用語のミニマム(minimum)。 <限界に達している>は<以上>と<以下、マクシマム(maximum)。<以上>と<以下>は<限界以上、限界以下>で、方向は逆だが同じこと(限界を越えない)をいっている。
少なくも千円はある ->千円以上ある
高くも一万円以上はしない -> <高くも一万円はしない>でもいい。 -> 一万円以下。<一万円以上>の否定だ。
一週間もあればできます -> 一週間以内(以下)
さて、このグループの<も>に譲歩の意味がある表現はあるか?<予期される程度をこえる>は<予期に反して>だが、これは通常<逆接>で譲歩ではない。
<予期される程度をこえていたり、限界に達していたりすることをあらわす>で<たり>は余韻を残し<同様の事柄がまだあること言外に表わす>のだが、例文を見るかぎり
予期される程度をこえている、限界に達している、以外に<同様の事柄がまだあること言外に表わし>ていることはなさそうだ。
ところで
少なくも千円はある -> 少なくとも千円はある
高くも一万円以上はしない -> 高くとも一万円以上はしない
のニ例は<も>を<とも>で置き換えても、同じような意味になる。同じような意味だが微妙に違う。
<少なくとも千円はある>は<多くはないが>といった言外の意味が考えられる。
<高くとも一万円以上はしない>は<安くはないが>といった言外の意味が考えられる。
<多くはないが>、<安くはないが>は一種の譲歩だ。だがこれは<とも>を使った場合で、<も>単独ではなく<とも>がなせるわざだ。手もと辞書によると
<とも>
1)接続助詞
前件に述べた仮定にかかわらず、後件が成立することをあらわす。
どんなことがあろうとも、動いてはいけない
つらくとも、がまんしよう
何は無くとも、楽しい我が家
解説も以上の三例も譲歩表現だ。
2)終助詞
疑い、反対の余地なく強く断言する。
もちろん行きますとも。
ああそうだとも。
いいとも、いいとも。
口語表現だが<余地なく>は<譲歩なく>になり、おもしろい対称だ。
3)副助詞
およその限界を表わす。
遅くとも十時までには帰る。多少とも関係がある。
すくなくとも千円はかかるだろう。
<およその限界を表わす>は正確でない。上記の<も>3)<予期される限度をこえていたり、限界に達していたりすることをあらわす>の方がいい。だが
多少とも関係がある。
はこれでは説明がつかない。 これは
少なくとも関係がある。
の意ではない。 <多少とも関係がある>は<(けっして多くはないが)関係がある>の意で譲歩表現だ。次に移る。
4)主体にそう判断される事態であることを表わす。
この説明だけでは何をいっているのかわからない。辞書にある例文を見てみる。
例
運悪くも見つかってしまった。惜しくも敗れた。
辛(から)くも逃(のが)れた。
例文は譲歩表現といっていい。言外の暗示の例を( )内に示すと
(見つかるとは思ってもみなかったが)運悪くも見つかってしまった。
(勝つと期待していたが、勝つはずだったが)惜しくも敗れた。
(逃れられるチャンスはごくわずかだったが)辛(から)くも逃(のが)れた。
<主体にそう判断される事態であることを表わす>という説明の中に譲歩表現が出てこない。
運悪く、惜しく、辛く
が<判断される事態>ということになるのだが、以上は形容詞<(運)悪い>、<惜しい>、<辛い>の連用形だ。事態を示すということであれば
運悪くて (運悪い事態で、運悪い状態で)惜しくて (惜しい事態で、惜しい状態で)
辛くて (辛い事態で、辛い状態で)
となるが、これでは
運悪くて見つかってしまった。
惜しくて敗れた。
辛(から)くて逃(のが)れた。
で意味が違う、または意味をなさない。したがって<主体にそう判断される>を理解して直さないといけない。
運悪いことと判断するが、見つかってしまった。
惜しことと判断するが、敗れた。
辛(から)いことと判断するが、逃(のが)れた。
で意味が通じる。だがこうは決して言わないだろう。
次(つぎ)
5)その中がさらに幾つかの部分に分かれていることを表わす。
例
二十世紀も初めのころ
書きも書いたり
学者にもいろいろなタイプがあるが
の1、2、4番の例は<その中がさらに幾つかの部分に分かれていることを表わす>で説明できる。というか、むしろ上の解説はこれらの例文用の解説だ。
東京は(広くて幾つかの部分に分かれているが、その)西のはずれ
二十世紀は(長くて幾つかの時期に分かれているが、その)初めのころ
となる。これは一種の<譲歩>といえる。言い換えると
1) 類似した事柄を列挙したり、同様の事柄がまだあることを言外に表わしたり、する
の<同様の事柄がまだあることを言外に表わす>で
東京は、(広くて幾つかの部分に分かれているが)、その)西のはずれ
二十世紀は、(長くて幾つかの時期に分かれているが、その)初めのころ
のカッコ内(言外)の下線部が<同様の事柄がまだあることを言外に表わす>に相当する。
学者にもいろいろなタイプがある
はこの例文自体<同様の事柄=学者がまだあること>という内容だ。
書きも書いたり
はどう説明したらいいか?
<書きも書いたり>は<書きに書いたり>ともいえ、いずれも<たくさん書いたこと>をいっている。<書きも書いたり>の方が特に<書いた中がさらに幾つかの部分に分かれていることを表わして>いるわけではない。また<書きも書いたり>だけでは譲歩の意味は特には引き出せない。
書きも書いたが、内容は乏(とぼ)しい。
で譲歩の意味が出るが<中がさらに幾つかの部分に分かれている>は関係してこない。また実際にこのように言うことはまずないだろう。<書きも書いたり>は慣用表現と見た方がいい。この<たり>は動詞の連用形につく完了の助動詞<たり>。古い表現では<書きも書きたり>で<書き>が繰り返され、調子がいい。<xx も xx たり>で一種の<掛かり言葉>ではないか。
次(つぎ)
6)そのものの場合を一応肯定することを表わす。
例
飯(めし)も飯だがまず酒だ。
( 飯を食いたいのもやまやまだが)というのがカッコ付きで添えてある。
子どもも子どもだが親も親だ。
二つの例文は上の<書きも書いたり>と同じように同じ言葉が繰り返されており、。<xx も xx だが>で慣用的な表現だ。<だが>は逆説の熟語助詞で<xx も xx だが>で<そのものの場合を一応肯定することを表わす>で<も>が<そのものの場合一応肯定することを表わす>わけではない。この場合も逆説と譲歩は未分化のところがあり、<一応肯定して、それとは反対のことを言う>のは譲歩表現だ。<一応肯定して>は<一歩譲って>だ。
まとめ
長くなってきて、まとまりがないようだが、ポイントは、ほぼ繰り返しになるが
1) 類似した事柄を列挙したり、同様の事柄がまだあることを言外に表わしたり、する。
大事なことは<1) 類似した事柄を列挙したり、同様の事柄がまだあることを言外に表したり、する。>の下線部分だ。
2)極端な場合を取り上げて、そのものが例外でないことを示す。(例をあげ他はもちろんということを示す)
例をあげ他はもちろんということを示す ‐ 暗示する、言外に表わす。言い換えて
例をあげ他はもちろんということを暗示する
とすると<他があることが前提で>1)の<同様の事柄がまだあることを言外に表わす>と同じことと言える。これが<も>の深い意味なのだ。3)予期される限度をこえていたり、限界に達していたりすることをあらわす。
例文では明確ではないが<予期される程度や限界>がポイント。
4)主体にそう判断される事態であることを表わす。
この説明は何をいっているのかわからないが、例文
運悪くも見つかってしまった。
惜しくも敗れた。
辛(から)くも逃(のが)れた。
に言外の背景を加えると
(見つかるとは思ってもみなかったが)運悪くも見つかってしまった。
(勝つと期待していたが、勝つはずだったが)惜しくも敗れた。
(逃れられるチャンスはごくわずかだったが)辛(から)くも逃(のが)れた。
で典型的な譲歩表現だ。
5)その中がさらに幾つかの部分に分かれていることを表わす。
これも例文に言外の背景を加えると
東京は、(広くて幾つかの部分に分かれているが)、その)西のはずれ
二十世紀は、(長くて幾つかの時期に分かれているが、その)初めのころ
のカッコ内(言外)の下線部が<同様の事柄がまだあることを言外に表わす>に相当する。
6)そのものの場合一応肯定することを表わす。
この説明内容自体譲歩の意味がある。
まとめのまとめ
以上をさらにまとめると
<も>の大きな働きとして
1)列挙、追加、添加
2) 同様(同類)の事柄がまだあることを言外に表わす
3)譲歩表現そのもの
(見つかるとは思ってもみなかったが)運悪くも見つかってしまった。
(勝つと期待していたが、勝つはずだったが)惜しくも敗れた。
(逃れられるチャンスはごくわずかだったが)辛(から)くも逃(のが)れた。
1)と2)は関係があるのはすぐわかる。too, also
3)は<にもかかわらず> in spite of、<それでも> even so、<そうだとしても> even if
で1)2)とは関係なさそうだが、< 同様(同類)の事柄がまだあるが、それでも>、さらには<反対の、あるいは対抗する事柄がまだあるが、それでも>で譲歩表現になる。
結論を述べると、わかってみるとどうということはないのだが、1)2)3)に共通しているところは、 1)と2)、それに3)も話題にしている<それ>以外に<それ以外の可能性(のモノ、コト)がある>と言うことだ。1)と2)は単に<それ以外の可能性(のモノ、コト)がある>ことだけを示す、暗示するだけだが、3)の譲歩は<それ以外の可能性(のモノ、コト)がある>ことは認めるが、<それでも>話題にしている<それ>を主張するレトリック(修辞法)なのだ。ここがポイントで、日本語では1)2)3)とも<も>が活躍する。イタリア語では<も>相当の anche がでてくる。しかし英語では3)の譲歩表現には also やtoo、as well は出てこず still (それでも)、even (それでも)、anyway (それでも、とにかく)が使われるのが特徴的だ。
前回のポスと ” 逆説と譲歩のあいまいさ -3 イタリア語 anche、日本語<も>” 参照。
ーーーーー
関連することば、表現
よくもわるくもない
にもかかわらず - 行くにもかからず、行ったにもかかわらず、雨にもかかわらず
<も>がない<にかかわらず>は明かに、意味、ニュアンスが違う。
でも - 行くけれども、行ったけれども、雨でも
ても - 行っても、言っても(ムダ)、雨がふっても
とも - 行くとも、雨(が)ふるとも
ども - 行けども、 雨(が)ふれども
それで、それでも
<それで>は順接だが<も>の一字を加えた<それでも>は逆説、譲歩で大活躍する。
sptt
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