Saturday, November 18, 2017

<見る>は<見入(い)る>由来


<見る>は<見入(い)る>由来>ではないかというのは私にとっては大発見であるので、前回のポスト ”感覚動詞<見る>の日本語、英語、イタリア語比較” で書いた発見までの過程を, 長すぎるので、大幅に削って独立させることにした。

普通に考えると<見る>の連用形<見(み)>に動詞<入(い)る>(<入(は)いる>ではない)がついて<見入る> になると考える。<見入る>は

テレビに見入る
目の前の富士の美しい姿に見入る

のように使われる。英語では to see ではなく to watch だろう。<見る>は<見入る>以外にも他の動詞と組んで相当多くの、さまざまな意味を持った複合動詞をつくる。<見(み)+他の動詞>という簡単な造語方法。かなり前のポスト”見る、 見える、見せる、見止める、見なす”(2012年)を参照。

一方<見る>はある意味で一般化、抽象化した多義語で、単に<目で見る>ではない。

行方(ゆくえ)を見る
行く末を見る
過去を見る

以上は<目で見る>わけではない。<思う>、<考える>に近い。

隣の部屋で寝ている(はずの)赤ん坊の様子を見に行く
機械の様子を見る
出来具合を見る
味を見る

以上は単に<目で見る>わけではない。<チェックする>に近い。

母が留守のあいだ花子は赤ん坊を見るように頼まれた。
親が出かけるので、半日ほど太郎がは店をみることになった。

以上も単に<目で見る>わけではない。<見守る>、<面倒をみる>、<留守を守る>といった意になる。

さらに接尾語的に<様子を見る>の派生からか<試す>の意があり、よく使われる。

してみる
やってみる
書いてみる

さらには、少し考えるとおかしい

見てみる
試してみる

などというのもある。以上のように相当数ある<見る>の複合動詞、言い換えると<見る>関連動詞、さらには多義性から<見る>は日本語(大和言葉)の太古から存在したように思える。<目で見る>あるいはもっと広く<モノ、コトを見る>の語幹<み>は<目(め)>と大いに関係があることが容易に想像される。日本語の動詞活用が五段活用(古語は四段活用)とすると、<めう>、<めく>、<めす>、<めつ>、<めぬ>、<めふ><めゆ>、あるいは<みう>、<みく>、<みす>、<みつ>、<みぬ>、<みふ>、<みゆ>が<見る>の原形と推測される。実際<見ゆ>が原形のようだ。だが現代語<見る>は他動詞、一方<見ゆ>は自動詞なのだ。

富士山を見る
富士の山見ゆ(富士の山が見える)

<xx ゆ>動詞は現代語ではなくなっているが

<聞く>と<着こゆ>は<見る>と<美ゆ>にたいおうする。そのほかでは

消ゆ(消える) - 消す
絶ゆ(絶える) - 絶やす
燃ゆ(燃える) - 燃やす

他動詞では

植ゆ(植える)
悔ゆ(悔いる)


がある。







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