<感じる>は<寒さを感じる>、<恐怖、おそれを感じる>で<を>をとるので他動詞と思っていたが、たまたま手もとの<三省堂、新明解(第6版)>にあたってみたら<自/他動詞、上一(段活用)>となっている。用例がいくつかあり、<を>をとるもの、<と>をとるもの、<に>をとるもの等があるあが、自/他の区別の説明はない。純自動詞的な<xxが感じる>の例文はない。<感じる>は純大和言葉ではなく
漢語の<感>+<する>がもとで kan + suru が kan + zuru <感>+<ずる>に、そしてさらに kan + jiru <感じる>なったと考えられる。<漢語+する>便利な造語方法で、いくらでも簡単にできる。<感じる>のような<一字漢語+する>もかなりあるが、<二字漢語+する>はいくらでもありそう。
愛(あい)する、案(あん)じる、安(あん)じる(安(やす)んじる)、圧(あっ)する、圧迫する、逸(いっ)する、逸脱する、鬱(うっ)する、演(えん)じる、演奏する、応(おう)じる、応用する
介(かい)する、介護する、解(かい)する、解釈する、感じる、感謝する、関(かん)する、関係する、帰(き)する、帰京する、記(き)す(る)、記録する、喫(きっ)する、興(きょう)じる、禁(きん)じる、禁止する、屈(くっ)する、屈折する、決(けっ)する、決定する、献(けん)じる、講(こう)じる、講義する、抗(こう)する、抗議する、高(こう)じる、高騰する
給(きゅう)する、給仕する、窮(きゅう)する、窮乏する、供(きょう)する、供給する
遇(ぐう)する、減(げん)じる、減税する (<ぎゅうじる>は<牛耳(ぎゅうじ)+る>。)
察(さっ)する、参(さん)じる、参加する、散(さん)じる、散乱する、生(しょう)じる、信(しん)じる、信頼する、煎(せん)じる、接(せっ)する、接客する、総(そう)じる(総じて)、総合する、損(そん)じる
称(しょう)する
準(じゅん)じる、準拠する、叙(じょ)する、叙勲する、乗(じょう)じる、乗車する、
対(たい)する、対抗する、達(たっ)する、達成する、嘆(たん)じる、嘆願する、陳述する、通(つう)じる、通過する、徹(てっ)する、徹底する、転(てん)じる、転職する、投(とう)じる、投球する
長(ちょう)じる
脱(だっ)する、脱走する、断(だん)じる、断定する、動(どう)じる、動揺する
納得する、任(にん)じる、任命する、熱(ねっ)する、念(ねん)じる、納入する
排(はい)する、排除する、発(はっ)する、発車する、判(はん)じる、判断する、比(ひ)する、比較する、扮(ふん)する、扮装する、変(へん)じる、変化する
表(ひょう)する、表現する
罰(ばっ)する、弁(べん)じる、弁解する、没(ぼっ)する、没頭する、
満足する、密着する、無視する、免(めん)じる、免責する、模(も)する、模写する
有(ゆう)する、 要(よう)する
和(わ)する、和解する (和(わ)は大和言葉のようだが現代北京語では<he>だが、古い中国語の発音がかなり残っていると言われる広東語では<wo>で、かなり高い確率で漢語由来だ。)
(追加予定)
<じる>、<する>がまじっているが、上で書いたように<じる>は<ずる>が変化したもので、<じる>を<ずる>に変えても、古語的、文語的になるが、意味はかわらない。。
<感じる>の<xx じる>となる動詞を抜き出すと、
案(あん)じる、安(あん)じる、演(えん)じる、応(おう)じる
禁(きん)じる、献(けん)じる、講(こう)じる、高(こう)じる
減(げん)じる
参(さん)じる、散(さん)じる、生(しょう)じる、信(しん)じる、煎(せん)じる、総(そう)じる、損(そん)じる
乗(じょう)じる
嘆(たん)じる、通(つう)じる、転(てん)じる、投(とう)じる
動(どう)じる
任(にん)じる、念(ねん)じる
判(はん)じる、変(へん)じる
弁(べん)じる
免(めん)じる
以上は<感じる>と同じ
漢語の<X>+<する>がもとで xan + suru が xan + zuru <X>+<ずる>に、そしてさらに xan + jiru <Xじる>のパターン。<案(an)じる><安(an)じる>は頭の子音がない。
があるが、さらに
<禁(kin)じる、>に見られる、 xin + suru が xin + zuru <X>+<ずる>に、そしてさらに xin + jiru <Xじる>のパターン。
<通(つう、tsuu)じる>に見られる、 xu + suru が xu + zuru <X>+<ずる>に、そしてさらに xu + jiru <Xじる>のパターン。これは<iu>-><yu>が多い。<通(つう、tsuu)じる>の<つ(tsu)>は世界的に見てややまれな発音。
<献(けん、ken)じる>に見られる、 xen + suru が xen + zuru <X>+<ずる>に、そしてさらに xen + jiru <Xじる>のパターン。演(en)じるは頭の子音がない。
<損(そん、son)じる>に見られる、 xon + suru が xon + zuru <X>+<ずる>に、そしてさらに xon + jiru <Xじる>のパターン。
<講(こう、kou)じる>に見られる、 xou + suru が xou + zuru <X>+<ずる>に、そしてさらに xou + jiru <Xじる>のパターン。 応(ou)じるは頭の子音がない。
のパターンがある。 <+suru >から< +zuru>への変換は<suru>の前の<n>音にひかれたためと思うが、
<通(つう、tsuu)じる>、<講(こう、kou)じる>、<長(ちょう、chou)じる>のパターンは、なぜ +suru から +zuru になったのか、疑問が残る。だが、元の中国語の発音(現代中国語)が参考になる。
応 (おう) - ying
通 (つう) - dong
講 (こう) - jiang
高 (こう) - gao
総 (そう) - zong
乗 (じょう) - cheng
通 (つう) - tong
長 (ちょう) - chang
投 (とう) - tou
動 (どう) - dong
高(こう)と投(とう)が違うがその他はみな、現代日本語では<xn ん>、現代中国語では<xng>なっていること。一方昔の日本人は<xn>と<xng>を区別をしたが(できたが)、現代の日本人は<xn>と<xng>の区別はほとんどしなく(できなく)なくなってしまっている。<xng>は<n>音と同じように <+suru >から< +zuru>への変換に影響したのではないか。高(こう)と投(とう)は聞き違いか、類推のためではないか。
<一字漢語+する>の自動詞、他動詞の別を調べてみる。<二字漢語+する>については” <する>は他動詞、自動詞、いったい何だ?>" )で少し調べた。
<を>をとれば他動詞、<を>がとれなければ自動詞というのが基準だが、どうもそう簡単ではない。意味で分類するとさらに簡単でなくなる(たいそう複雑になる)ので、次のように分類した。
<を>をとる動詞 (他動詞)
愛(あい)する、案(あん)じる、圧(あっ)する、逸(いっ)する、演(えん)じる
介(かい)する、解(かい)する、記(き)す、喫(きっ)する、禁(きん)じる、決(けっ)する、献(けん)じる、講(こう)じる、
遇(ぐう)する、減(げん)じる (負債を減じる(文語) <減(へ)らす>)
察(さっ)する、散(さん)じる、
信(しん)じる、煎(せん)じる、総(そう)じる、損(そん)じる
叙(じょ)する
嘆(たん)じる、通(つう)じる、徹(てっ)する(夜を徹して)、転(てん)じる(身を転じる)、投(とう)じる
脱(だっ)する、断(だん)じる
熱(ねっ)する、念(ねん)じる
排(はい)する、発(はっ)する、判(はん)じる、変(へん)じる
罰(ばっ)する、弁(べん)じる
免(めん)じる、模(も)する
有(ゆう)する、 要(よう)する
純自動詞
鬱(うっ)する これは聞いたことも、使ったこともない。(太郎は花子にふられて鬱している。)
減(げん)じる 負債が減じる(文語) <減(へ)る>
散(さん)じる、 <財産を散じる>は他動詞。散乱させる。<木の葉が散じる>は自動詞。散乱する。
生(しょう)じる 不具合、不都合が生じる (文語)<発生する>、他動詞は<生じさせる>。
長(ちょう)じる 大きくなる
没(ぼっ)する 死ぬ、なくなる
<に>をとる動詞 (自動詞)
安(あん)じる、応(おう)じる
解(かい)する <xxをyyに解する>で、これは他動詞
関(かん)する、帰(き)する、は<xxをyyに帰する>で、他動詞
興(きょう)じる、屈(くっ)する、抗(こう)する
遇(ぐう)する <xxをyyに遇する>で、これは他動詞
参(さん)じる、接(せっ)する
準(じゅん)じる
叙(じょ)する <xxをyyに叙する>で、これは他動詞
乗(じょう)じる
対(たい)する、達(たっ)する、通(つう)じる、徹(てっ)する(仕事に徹する)、転(てん)じる(北海道に転じる、移動する)、
脱(だっ)する (xxからyyに脱する>、 動(どう)じる
任(にん)じる <xxをyyに任じる>で、これは他動詞、
比(ひ)する
扮(ふん)する <わが身をxxに扮(ふん)する>とも考えられる。<xxが扮(ふん)する>という純自動詞の言い方はないようだ。
変(へん)じる
模(も)する
<と>をとる動詞
解(かい)する <xxをyyと解する>で、これは他動詞、
記(き)す <xxをyyと記す(書く)>で、これは他動詞
察(さっ)する さぞかし不便なことと察する (思う、考える) <xxをさぞかし不便なことと察する(思う、考える)>では他動詞となる。
接(せっ)する
対(たい)する、通(つう)じる
断(だん)じる <xxをyyと断じる(判断する)>では他動詞となる。
判(はん)じる <xxをyyと判じる(判断する)>では他動詞となる。
和(わ)する
<と>と<感じる>に関しては<xxをyyと感じる>という使い方は少なくない。そして<xxを>の部分は往々にして省かれて<あたしはyyと感じる>となる。<と>は<xxとして>、<xxのように>にで英語の as、like のような意味と働きがある。I feel like xxxx. 形容詞を使って I feel cold. と言い、日本語でも<(私は)寒く感じる>で自動詞っぽい。<を>がなく<と>をとれば自動詞とすれば<xxと感じる>は自動詞となる。これは<と>の論議でもあり、文法上の大きな問題。別のポスト ”<と>は日本語の大発明” を参照。
純粋に<と>をとる動詞のうち、接(せっ)する、対(たい)する、通(つう)じる、は位置、移動に関した動詞だ。対(たい)する、和(わ)する、は敵対関係を示す動詞だ。
上記のうち自/他動詞と見られるものは
逸(いっ)する チャンス(絶好の機会)を逸する
逸(いっ)する 「遅きに逸した感」:「遅きに失した感」の誤り。「遅きに失した感」とは、既に手遅れであるさま、あるいは遅すぎて間に合わないさまなどを意味する表現。(weblio 辞書) だが死語に近い<気ままに楽しむ。 「富者は逸して、貧者は労せざるを得ず/文明論之概略(諭吉)>(weblio 辞書)という自動詞用法がある。
減(げん)じる 負債を減じる(文語) <減(へ)らす>
減(げん)じる 負債が減じる(文語) <減(へ)る>
散(さん)じる 財産を散じる 財産を<散(ち)らす>
散(さん)じる 木の葉が散じる 木の葉が<散(ち)る>、 人々は三々五々散じて行った。
徹(てっ)する 夜を徹して
徹(てっ)する 仕事に徹する だがこれは<(わが身を)仕事に徹する>とも解釈できる。
転じる 身を転じる
転じる 北海道に転じる、移動する。 これも<(わが身を)北海道に転じる>とも解釈できる。
風向きが転じる。これは自動詞。
磁石の針が転じた(動いた、回った)、という言い方があるか?これは自動詞。
脱(だっ)する 危機を脱する、危機から脱する、ともいう
脱(だっ)する xxからyyに脱す。 これも<(わが身を)xxからyyに脱す>とも解釈できる。
蝶のサナギが殻から脱する、とは言えそう。だが、これも<蝶のサナギが(その身を)殻から脱する>とも解釈できる。
変(へん)じる カメレオンは体の色を変じる(変える)。
変(へん)じる カメレオンは体の色が変じる(変わる)。
(これは文法的におもしろい文例)
模(も)する AはBを模したものだ。
模(も)する 花子は女優Aに模した。これも<花子は(自らを、わが身を)女優Aに模した>と解釈でき、この場合は他動詞。
上ので注目したいのは
1)別の自他の言い方では、日本語では自動詞とこれに対応する(これとペアになる)他動詞がある。
<減(げん)じる>は自動詞<減(へ)る>、他動詞<減(へ)らす>
<散(さん)じる>は自動詞<散(ち)る>、他動詞<散(ち)らす>
<転(てん)じる>は自動詞<(向きが変(か)わる>、他動詞<(向きを(変(か)える>
<変(へん)じる>は自動詞<変(か)わる>、他動詞<(変(か)える>
2)かくれた<わが身を>
徹(てっ)する 仕事に徹する(自動詞) <(わが身を)仕事に徹する>で他動詞。
転じる 北海道に転じる、移動する。(自動詞) <(わが身を)北海道に転じる>で他動詞。
脱(だっ)する xxからyyに脱す。(自動詞) <(わが身を)xxからyyに脱す>で他動詞。
模(も)する 花子は女優Aに模した。(自動詞) <花子は(自らを、わが身を)女優Aに模した>で他動詞。
<わが身を>がないと、表面的には自働詞だが、他動詞っぽい。純自動詞でもない。<転じる>は
磁石の針(の向き)が転じた(動いた、回った)では自動詞っぽい。<動き>の動詞グループ。
特に1)は自/他動詞を判断する簡単な方法だ。<感じる>に当てはめてみる。
<感じる>は中国文化が入ってきてからの言い方で、古くは<覚(おぼ)える>、さらには<覚(おぼ)ゆ>だ。これは感覚動詞の<聞こえる>、<聞こゆ>に似ている。
覚える: <を>をとる他動詞。寒さを覚える。痛みを覚える。
覚ゆ: <覚ゆ>はかなり古いので、<寒さを覚ゆ>、<痛みを覚ゆ>と言っていたかどうか定かではない。<寒きを覚ゆ>、<寒く覚ゆ>、<痛み覚ゆ>が古語らしい。<寒く覚ゆ>、<痛み覚ゆ>は自動詞とも解釈できる。
<寒く感じる>は現代語でも普通に使う。 これは他動詞<感>がほとんどない。文法的に自動詞か? <寒い>は形容詞だ。I feel cold. 相当。
<寒く感じる>は<(私は)体が寒く感じる>とはまず言わないが、間違いではないだろう。I feel the (my) body cold. 相当。<(私は)体を寒く感じる>は翻訳調で間違いだろう。この英語の feel は他動詞か?一方日本語の<(私は)体が寒く感じる>の<感じる>はかなり自動詞度が高いと言えるが、格助詞<が>には主語以外に対象を示す。<私はチョコレートが好きだ>。だが<好きだ>は動詞ではない(私はチョコレートを好く>。<(私は)体が寒く感じる>は<象は鼻が長い>、<キリンは首が長い>に似ている。
痛い - 痛く感じる。 これは<(私は)頭が、腰が痛く感じる>などの省略と考えられる。これも<(私は)頭を、腰を痛く感じる>は間違いだろう。
つらい - つらく感じる。 これは<(私は)今の仕事が、今の待遇が、今の生活がつらく感じる>などだが、かなり変だ。<(私は、私には)今の仕事が、今の待遇が、今の生活がつらく感じられる>が普通だろう。く感じられる>は他動詞<感じる>の受身形か?
一方上の<(私は)体が寒く感じる>は<(私は、私には)体が寒く感じられる>、<(私は、私には)頭が、腰が痛く感じられる>は何か変だ。
遠い
故郷(この道のり)を遠く感じる。 これは翻訳調だが、よさそう。<感じる>は他動詞。<xxをyyと感じる>と同じような形式だ。
故郷(この道のり)は遠く感じる。 これはよさそう。(私には)故郷(この道のり)は遠く感じる。自動詞とみなせる。
故郷(この道のり)が遠く感じる。 これは少し変だが、まったくダメというわけでもなさそう。だが<(私には)故郷(この道のり)が遠く感じられる。>が一般的だろう。ここが "感じる>は自動詞、はたまた他動詞?" のポイントのようでもある。<感じられる>他動詞<感じる>の受身形か?
<感じる>以外に<感じさせる>という使役形がある。これは他動詞で、受身は<感じさせられる>。これを使ってみる。
(私は、私には)今の仕事が、今の待遇が、今の生活がつらく感じさせられる。
(私は、私には)故郷(この道のり)が遠く感じさせられる。
この二つはおかしい。<感じさせる>は<xxがyy(誰だれ)にxxを(形容詞の場合はxxのように)感じさせる>という構造。
今の仕事が、今の待遇が、今の生活が(は)私につらいように(つらい思いを)感じさせる。
故郷(この道のり)は私に遠いように(遠さを)感じさせる。
これを受身形にしたものは<(誰だれ)はxxでxxを(形容詞の場合はxxのように)感じさせられる>という構造。
私は今の仕事、今の待遇、今の生活でにつらいように(つらい思いを)感じさせられる。
私は故郷(この道のり)で遠いように(遠さを)感じさせられる。
だいぶ混乱してきたが、比較してみよう。
1-a) 私は、私には今の仕事が、今の待遇が、今の生活がつらく感じられる。
1-b) 私は今の仕事、今の待遇、今の生活でにつらいように(つらい思いを)感じさせられる。
2-a) 私は(私には)故郷(この道のり)が遠く感じられる。
2-b) 私は故郷(この道のり)で遠いように(遠さを)感じさせられる。
まず、文法構造が違う。1-a)と2-a)は英文法でいう受身形になっていない。さらに他動詞<感じる>の受身形<感じられる>の受身感は<感じさせられる>よりはるかに弱い。<感じられる>は日本語文法にある<れる>、<られる>の<自発>を使うと説明できるかもしれない。<れる>、<られる>は自発以外に受身、可能、ときに尊敬もあって、意味、使い方が曖昧、混乱しているようだ。
生む (他動詞) - 生まれる(自動詞、自発?)
生ます(他動詞<生む>の使役形) - 生まされる (受身形)
汚す (他動詞) - 汚れる(自動詞、自発?)
汚さす(他動詞<汚す>の使役形) - 汚される (受身形)
洗う (他動詞) - 洗われる(受身だけか? <心が洗われる>の<洗われる>は受身、自働詞、自発?)
洗わす(他動詞<洗う>の使役形) - 洗わされる(受身形)
見る (他動詞) - 見える(自動詞、自発?)、見られる(受身)
(無理やり)見させる(他動詞<見る>の使役形)- 見させられる (受身形)
見せる(他動詞)- 見せられる (受身形)
聞く (他動詞) - 聞こえる(自動詞、自発?)、聞かれる(受身)
(無理やり)聞かせる、聞かす(他動詞<聞く>の使役形)- 聞かせられる、聞かされる (受身形)
立てる (他動詞) - 立つ(自動詞、自発?)
立てさす、立てさせる(他動詞<立てる>の使役形) - 立てされる、立てさせられる (受身形)
旗をたてさす、旗を立てさせる - 旗が立てされる、旗が立てさせられる
立たす (自動詞<立つ>の使役形) - 廊下に立たす、廊下に立たされる
また日本語の受身形は往々にして被害意識(被害を受けている意識)がからんでいる。 上記の受身を被害意識に注意して読めばこれがわかる。
一方感情、心理関連ということで<感じる>に意味上似ている動詞は、
案(あん)じる (心配する、気にかける、思案する)
解(かい)する (理解する、わかる*)
喫(きっ)する (心理的に受ける)
察(さっ)する (思う、考える)
信(しん)じる
断(だん)じる (判断する)
念(ねん)じる (お経を念じる、のように同じ言葉を繰り返して覚える**こと、のようだ)
判(はん)じる
有(ゆう)する (感情を持つ、という意味合い)
わかる*: <理解する>は<xxを理解する>で他動詞。<わかる>は<xxがわかる>で自動詞、または形容詞。 (<知る>は漢語由来か、はたまた大和言葉か? 別途検討)
覚える**: <覚(おぼ)える>は少し前のひとは<寒さを感じる>の意で<寒さを覚える>といっていた。おそらく<覚(おぼ)える>は、おそらく、発音が少し長いこと、<感じる>と<記憶する>の両義があることから、 <感じる>の<覚(おぼ)える>は使われなくなり、漢語由来の<感じる>に取って代わられと考えられる。現代中国語では<覚得>で<感じる>やそれほど深くな感覚的な<考える>の意でようく使われる。
<感じる>は<感覚>関連の動詞(感覚動詞)だが、純大和言葉ではなく漢語の<感>+<する>である、のもう一つはの理由は、大和言葉の感覚動詞の代表<見る>、<聞く>との比較だ。これは<感じる>は自動詞、はたまた他動詞?検討の参考になる。
見る 他動詞 (xxを見る) 上一段活用
見(み)ない、見(み)て、見る、見る時、見れば
見える 自動詞 (xxが見える)下一段活用
見えない、見えて、見える、見える時、見えれば
聞く 他動詞 (xxを聞く) 五段活用
聞かない、聞くと、聞く、聞くとき、聞けば
聞こえる 自動詞 (xxがきこえる) 下一段活用
聞こえない、聞こえて、聞こえる、聞こえる時、聞こえれば
一方<感じる>は、今のところ自他が不明だが、<感>+<する>で、<する>の活用<さ変格活用>が適用されるかというと、そうではなく、冒頭の辞書の解説のように上一(段活用)。
感じない、感じて、感じる、感じる時、感じれば
少し前の<感ずる>とすると
感じない、感じて、感ずる、感ずる時、感ずれば
<する>は大和言葉で<変格>するくらい昔からよく使われてきた動詞だ。現代の<さ変格活用>は
しない、して、する、する時、すれば
なので、<感じる>はこれと同じ(さ変格活用)になる。
感ぜず、感じて、感ず、感ずる時、感ずれば
英語の do も do doed, doed (doen) ではなく、do did done でいわば変格活用。
<感ずる>の<さ変格>から<感じる>の<上一段>への移行は比較的新しい。
一方上で ”<感じる>は<感覚>関連の動詞(感覚動詞)だが、<見る>、<聞く>と対応するところがないのだ。
感じる 自/他動詞 上一段活用
<xxを感じる>よりも実際には<xxが感じられる>と言い方の方が多い。<見える>、<聞こえる>から類推すると<感じられる>は他動詞<感じる>に対応する自動詞と言えないか?
感じる 他動詞 上一段活用
感じられる 自動詞 下一段活用
下一段活用は
感じられない、感じられて、感じられる、感じられる時、感られれば 下一段活用
で、自動詞の<見える>、<聞こえる>と同じだ。
<感じる>のもって回った言い方に<感じさせられる>という言い方があるが 、これは使役形で他動詞<感じさせる>の受身形で翻訳調っぽい。
感じさせる 他動詞 下一段活用
感じさせない、感じさせて、感じさせる、感じさせる時、感させれば
見さす
見させる
聞かす
聞かせる
感じさす
感じさせる
これは他動詞というよりは<使役っぽい。<誰々にxxを感じさせる>。
<見る>、<聞く>は他動詞で、受身が可能。
見られる - <xx(誰だれ)に見られる>でこれは<見える>とは違う
聞かれる - <xx(誰だれ)に聞かれる>でこれは<聞こえる>とは違う
<感じる>はどうか? <感じる>を他動詞とすると
感じられる - <xx(誰だれ)に感じられる>とは基本的に言わない。<xx(誰だれ)に感じ取られる>という言い方はあるが、意味がずれて他動詞<感じる>の受身の<感じられる>とは違う。
ここは<見る>、<聞く>と大きな違いで、<感じる>は他動詞になりきっていないと言える。
一方<<xx(誰だれ)に>ではなく<私に>、または一般的に<自分に>としたらどうか?
感じられる - <自分に感じられる>
<自分に感じられる>は受身ではない。それでは何か。自動詞か?
自動詞なら<自分に、xxが感じられる>という言い方は可能。<見える>、<聞こえる>はどうか?
自分に、xxが見える。
自分に、xxが聞こえる。
ダメではないが、日本語らしいのは<感じられる>をふくめて
自分には、xxが見える。
自分には、xxが聞こえる。
自分には、xxが感じられる。
文法上はこの<に>と<には>に大きな違いはない。 <自分には>は係助詞<は>を強調すると<自分に、について言えば>だが、これは<自分、について言えば>とほぼ同じ意味だ。
だが<感じられる>は<見える>、<聞こえる>ほど自動詞として独立はしていない。たぶん<感>+<する>という構造、<感>という漢語由来の語のためだろう。
<感じられる>は他動詞<感じる>の受身の意味、意識が残っているのだ。日本語には自発という文法用語、分類がある。<れる>、<られる>で動詞の未然形につく。やっかいなのは、多くの場合、自発、可能、受身、ときに尊敬の意があり、場合によっては曖昧(あいまい)なところがある。
逆に<見える>、<聞こえる>は<見る>、<聞く>に自発と考えられないか。自発の定義は見つけていないが、とりあえず<自然と、おのずから>の意としておくと
自分には、xxが(自然と、おのずから)見える。
自分には、xxが(自然と、おのずから)聞こえる。
自分には、xxが(自然と、おのずから)感じられる。
<見える>、<聞こえる>は間違いではないが、まずこうは言わない。一方<感じられる>はごく自然な言い方だ。<感じられる>の可能、受身はどうか?
可能 - 自分には、xxを感じることができる。
受身 - 自分には、xxを感じさせられる。
ごまかし、トリックのようだが最後の受身の<感じさせられる>は別の他動詞<感じさせる>という<感じる>の使役形(<感じる>の未然形<感じ>+させる)の受身だ。
<感じられる>のほかに、最近は<感じれる>というのがあるが、これまた可能とも自発ともとれる。<感じられる>を自発、<感じれる>を可能、<感じさせらる>を受身とすれば区分ははっきりするが、よい意味での曖昧さ、掛詞(かけことば)的なニュアンス、微妙にに違った意味の言葉のヒュージョン(fusion)は犠牲になる。ヒュージョン(fusuion)が悪く働くとコンヒュージョン(confusion)になる。
はっきりした結論が出ていないが、かなり長くなってきたので、<感じる>は自動詞、はたまた他動詞?の答をとりあえずしておくと、
<感じる>は基本的に他動詞。<寒く感じる>の<感じる>は自動詞のようだが<xxを寒く感じる>の<xxを>を省略したものと見る。これは<xxに寒さを感じる>と言い換えることができる。<感じる>は純大和言葉ではなく、他動詞<感じる>に対応する、ペアの自動詞がない。純自動詞的な<xxが感じる>という言い方は基本的になく、<xxが感じられる>となる。<感じられる>は自発とも受身とも可能ともとれる。自発と解釈するのがよさそうだが、自発の定義をよく知らないので、調査継続としておく。
sptt
以下は今後使うかも知れない<メモ>で、とりあえずそのまま残しておく。
<覚ゆ>は何活用か?
覚え(ye)ず
覚え(ye)て
覚ゆ
覚ゆる時
覚ゆれば
と活用するとする。一方<覚える>は
覚えない
覚えて
覚える
覚える時
覚えれば
で下一段活用。
ややこしいが<見る>には<見せる>(to show)という他動詞がある。これは<聞かせる>に対応するので、<相手に、誰だれに聞かせる>に準じて<相手に、誰だれに見させる>で、to show とはやや違う。また<見せる>は<みさせる(mi-sa-se-ru)>からの変化だろう。一方<きかせる(ki-ka-se-ru)は<ki-ka>が語幹なので<きせる>にはならない。<きせる>は<着せる>になって具合が悪い。
さて ” <感じる>は自動詞、はたまた他動詞?” を調べてみる。問題は冒頭で述べたように
<三省堂、新明解(第6版)>では、<感じる>は他動詞でなく<自/他動詞、上一>となっていることだ。
<感じる>は<xxを感じる>で他動詞のようだが、どこが自動詞なのか。
<感じる>と意味も字ずら<xx じる>も似ている<案じる>、<信じる>と比較してみる。<案じる>も<信じる>もく漢語の<案)、<信>+<する>がもとで、これが<感じる>と同じ経緯で変化して<案じる>、<信じる>になったもの。古くはは<感ずる><感ず>、<案ずる><案ず><信ずる><信ず>だった。
<神を信じる>というのは内容的に日本語らしくないが、(<神を信じる>が嫌いなひとは<貧乏神を信じる>で読み替えてもいい。)
<神を信じる>の<信じる>は他動詞(三省堂、新明解)。
<神を感じる>の<感じる>は自/他動詞(三省堂、新明解)。
他動詞は<対象に働きかける>というような説明があるので
神という対象を信じる
神という対象を感じる
こうすると<感じる>は他動詞らしくなる。日本語では自発という文法用語、分類がある。<れる>、<られる>で動詞の未然形につく。やっかいなのは、多くの場合、自発、可能、受身、ときに尊敬の意があり、場合によってはあいまいなところがある。
神を信じられる。
神を感じられる。
これはどうも可能のようだが、主人公がいない。
私は神を信じられる。(私が神を信じられる、は場合によってこういえるが、かなり変だ。)
私は神を感じられる。(私が神を感じられる、も場合によってこういえるが、かなり変だ。)
<私は>は日本語文法では主語ではなく主題。<私についていえば>で、主語がないことになってしまう。だが<信じたり、信じることができたりする主体>は<私についていえば>で表すとして、文法、形式上(軽い意味ではない)ではなく、意味上の主語とする。
対象の<神>のあとの<を>を<が>に変えてみる。<が>に変えると、<神>は目的(対象)ではなく主語になる。<が>は主格(主語)を示す格助詞。
神が信じられる。
神が感じられる。
今度は主語があるようなので、主題(主人公)を加えてみる。
私は神が信じられる。
私は神が感じられる。
これはどうも可能の意のようだ。<私についていえば>は意味的に<私には>に近い。
私には神が信じられる。
私には神が感じられる。
こうすると、様子が違ってくる。まだ可能の意でいいが、自発の意も入りこんできて
私には神が(自然と、自然に)信じられる。
私には神が(自然と、自然に)感じられる。
特に<感じられ>のほうは自発度が高い。
<私>以外の場合はどうか。
あなたは神が信じられますか?
あなたは神を信じられますか?
花子は神が信じられる。
花子は神を信じられる。
あなたは神が感じられますか?
あなたは神を感じられますか?
花子は神が感じられる。
花子は神を感じられる。
<あなたは神が信じられますか?>、<花子は神が信じられる。>は可能だろう。
<あなたは神を信じられますか?>、<花子は神を信じられる。>も可能だろう。
<あなたは神が感じられますか?>は可能だろう。あなたは神を感じることができますか?
<あなたは神が自然と(自然に)感じられますか?>は自発になりそう。一方<あなたは神を自然と感じられますか?>は可能の意味が強い。
一方<られ>のない
<あなたは神が自然と感じますか?>はおかしい。神が感じる、わけではないのだ。
<あなたは神を自然と(自然に)感じますか?>は問題ない。
<花子は神が感じられる。>もかなり高い確率で可能だ。花子は神を感じることができる。だが<花子は神が自然と感じられる。>は自発でもよさそう。<花子は神を自然と感じられる。>は可能気味。だが、<れる>を使わない<花子は神が自然と感じる。>はダメだが、<花子は神を自然と感じる。>は自発ではないか?
一方<私は神が自然と信じられる。>、<あなたは神が自然と信じられますか?>、<花子は神が自然と信じられる。ダメではないが、<信じる>と自発は相性が悪いようだ。
また上記の例では受身を出していない。<信じる>は他動詞なので、<神はxx(誰だれ)に信じられた。>の<信じられ>は受身だ。一方<神はxx(誰だれ)に感じられた。>の<感じられ>は自発にも受身にも理解できそうで、示唆するところが多い。<その時、神が私に(は)強く感じられた。>、<その時、私に(は)貧乏神が強く感じられた。>は悪くない表現だ。
自発の定義は調べたことがないが、<自>は<おのずから>、<自然と、automatically>の意に近い。<発>は<xxを発する>で他動詞、<xxが発する、発生する>で自動詞か。どこかで書いたが漢語の<発>は多義語だ。意味上<感じる>は自発性<xxが発する、発生する>があり、自動詞的、<信じる>は自発性というより意思的なところがある。だが文法上<を>をとれば多くは他動詞だ。(日本語では<を>を従える自動詞は少なくない。<道を歩く>、<庭を走りまわる>。これは別のポストで何度かチェックしたことがある。かなり複雑で長いポストなので、ここでは引用しない。)
<xx じる>ではないが、<感じる>に似た動詞に<考える>、<思う>がある。<考える>、<思う>は手もとの辞書では他動詞。自発の<感じられる>と同じくらい、またはそれ以上に自発ともとれる<考えられる>、<思われる>はよく使われる。だが使い方は
xx と感じられる
xx と考えられる
xx と思われる
と<と>をとる表現で、(別のところで書いたが、<と>は大助詞)なる場合が多い。これでは主語がないが、主題はモノ、コトで、人は主題(私は、私には、など)になる。この場合
(私には)yy( モノ、コト)がxx と感じられる
(私には)yy( モノ、コト)がxx と考えられる
(私には)yy( モノ、コト)がxx と思われる
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追加
<感じる>も上一段活用に分類されているが
感じない (古くは<感ぜず>)
感じて、感じます (古くは<感じた時>は<感ぜし時>か?)
感じる (古くは<感ず>)
感じる時 (古くは<感ずる時)
感じれば (古くは<感ずれば>、もっと古くは<感ぜば>か?)
という活用で<感(かん>が語幹で、これは漢語の<感>由来だ。日本語では<かん>の二字になるが、<kan>は一音節だ。一方活用の方は<感じ>(二音節)が変化しないので、<感じ>が活用上の語幹ともいえ、<見る>などの一語(一音節)語幹とは根本的に違う。だがこれは表面的なことで、<感じる>は<感+する>の漢和折衷の動詞なのだ。また古くは<感ず>でこれは<サ行変格活用。<す>にしたがっているのだ。
現代語の<する>は
し(-ない、-よう)、せ(-ず)、さ(-せる、-れる)
し
する
する
すれ
しろ、せよ
のサ行変格活用で<感じる>の活用とずれがある。。古語の<す>は
Weblio 古語辞典
https://kobun.weblio.jp/content/す
他動詞サ行変格活用
せ
し
す
する
すれ
せよ
し
す
する
すれ
せよ
① 行う。する。
「男もすなる日記(にき)といふものを」
[訳] 男も書くという日記というものを。
で古語の<感ず>に呼応する。したがって現代語の<感じる>はサ行変格の<する>からずれてしまっている。
sptt
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