<負けずぎらい>は慣用句で、実際の意味は<負けぎらい>だ。では<負けずぎらい>はどう解釈したらいいのか?
フランス語の初級で<ne xxxx pas>という言い方の説明がある。だいぶ昔のことで不確かだが、ne も pas も否定の意があり、二重否定はマイナス(-)xマイナス(-)で肯定になるはずだが、実際には否定にとどまる、というものだったような気がする。
ある意味で似かよった表現に
この辛(つら)さ(痛さ)は経験した人にしかわからない。
がある。<しか>がないと
この辛さ(痛さ)は経験した人にわからない。
一歩進めて
この辛さ(痛さ)は経験した人にはわからない。
とするととんでもないことになる。
とすると<しか>はフランス語の pas に相当するようだ。また英語では
Only those who have experienced can know this pain.
とでもなり、<xx しか yyy ない>は only の一語になり、また否定の<ない>、not はない。見方をかえれば only のなかに否定(not) が含まれているということになる。
認知症というのがある。くわしいことは知らないが、意味としては<不認知症>あるいは<認知不可症>だろう。この場合<症>が病(やまい)の意を担(にな)ってしまっているのだろう。
<人見知りする>、< 人見知りしない>も似ているところがある。<人見知りする>の<見知り>は
どうぞお見知りおきください。
の<見て知っておく>の <見知り>だろう。<人見知りする>は<見知る>の前に<人>があるが、これは初対面の人のことだろう。したがって<人見知りする>は文字通りでは
<初対面の人>を<見て知っておく>
といった意味だろう。だがこれがどうしてよく使われる慣用的な<人見知りする>、<人見知りしない>となったのか?おそらく<人見知りする>より先に<人見知りしない>が使われ始めたと考えられる。
<初対面の人>を<見て知っておく>をしない。
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<初対面の人>を<見て知っておこう>としない。
これは<人見知りをする>の意に近い。この意に否定の<ない>がつくと
<初対面の人>を<見て知っておこう>としないことがない。
と二重否定になり、本来ならマイナス(-)xマイナス(-)で肯定(すなわち、<初対面の人>を<見て知っておこう>とする)になるはずだが、実際には否定の<ない>が一つだけ残り
<人見知りをしない>が<初対面の人>を<見て知っておこうとする>
となった。ややこしいが、肝心なのは<否定>の意が残っており、これが無意識に<ない>が加わったのだろう。 この<初対面の人>を<見て知っておこうとする>の意の<人見知りをしない>が慣用的に多く使われ出すと、この否定の<人見知りをする>も使われ始めた。
気がおけない友人、気のおけない友人
<気がおけない友人>の<気がおけない>もまぎらわしい。自信がないので使ったことはないが聞いたことはある。おそらく気をおく必要のない>がもとの意味だろう。 この短縮表現については最近新しい発見をした。名付けて<端折(はしょ)り表現>、<舌足らず表現>だ。
<負けずぎらい>は心理的には<負けがきらい>、<負けるのがきらい>が先行するが、発話時に<負けない>の心理が入り込んでしまったもの、と解釈できる。誰かがまちがって使い、これが慣用化したものとしておく。
その他の例
別のポストで<切ない>につてい調べて書いた。
”
<切ない>の意味を手もとの辞書で調べてみると、なんと解説の始めに
もと<切なる>
とある。だがこの語源(由来)についてそれ以上の説明はない。
<切なる>は
切なるお願
で<心からのお願い>
切にお願いします
という言い方もある。これも<心からお願いします>の意だ。この<切なる>から演歌でよく出て来る<切ない>への意味に変化、移行はどのようにおこったのか?
演歌でよく出て来る<切ない>は
せつない思い
で、さらに言い換えると、私の解釈では<やりきれない思い>。したがって、大体
せつない = やりきれない
<やりきれない>は<遣り切れない>で<こころ、思いの遣りどころが(はっきりとは)ない>でここに<切る>がでてくる。<せつない、切ない>はこの<やり切れない>の連想がはたらいものか。
<せつなる>は<うそ、みせかけ>でない<まことの、こころからの>という意味だ。これが<やりきれない>に変わっていた経緯は
<まことの、こころからの>は概して相手に伝わらない。
伝わらないと
<やり切れない>気持ちになる。
そして<せつない>となった。
とすると意外と簡単だ。”
下線部の<やり切れない>の連想がはたらいもの
は<まけずぎらい>の<ず>の紛(まぎ)れ込みに通じるところがある。
sptt
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