Friday, October 20, 2023

助動詞<た>と接続助詞<て>の関係

 
最近のポストで<xxている>、<xxてある>でいろいろと、まとまり、結論のないことを書いているが、前回のポスト
 
<Let it be> は<なるがままに>か?
 
を書いているときに、念のため<、ネットで助動詞<た>の活用チェックしたところ、なんと連用形がないのだ。これは大きな驚きで、手元の辞書 (三省堂) にある助動詞活用表をチェックしてみたが、やはり連用形はない。この辞書の助動詞活用表はこれまで数えきれないくらいチェックしていて、細かい字のメモでいっぱいになっている。よく見ると助動詞<た>に連用形がないのはチェック済みだ。助動詞<だ>に連用形がないのもチェック済みだ。助動詞の特殊活用、あるいは特殊活用する助動詞は大きな文法上の問題をかかえている。
 
最近の<xxている>、<xxてある>関連のポストで
 

<している>は<した、そして今もそのした状態が続いている>なのだ。<て>は過去、完了の助動詞<た>の連用形と解釈すればいい。
 
と何度か書いている。これはほぼ無意識的、直観的に書いたもので助動詞<た>の活用はチェックしていなかった。さらには<xxている>の<て>が接続助詞あつかいになっているのも、今回わかった。
 
ところで、最近引っ越し準備で部屋にある本をかたずけ始めている。買ったったままで読んでいない本 (多くは中国語で、私に難しすぎて読むのが面倒だったため) に再挑戦してみたり、読んではあるが、おもしろそうな本は再読している。再読した本のなかに
 
日本人の発想、日本語の表現 <私>の立場が言葉を決める(森田良行著、中公新書、1998年初版)
 
という本がある。本のページにところどころにメモが書いてあるので、読んだのだろうが、まったく読んだ記憶がない。印象が薄かったのだろう。今回読み返してみたが、ところどころに<なるほど>とう箇所があるが、ポイントが分散して繰り返されており、このためか、かえって何がポイントなのか頭に残らない。また、ことわざや決まり文句の引用がやたら多い。筆者の意図の一つは、日本語のことわざや決まり文句から<日本人の発想>を引き出すことのようだが、これはごく一般的にされることで、特に独自性はない。またことわざや決まり文句には相反するものが結構あり、話の展開に都合のいいことわざや決まり文句だけを引用して利用するのは問題がある。
 
このようなことから、今回はこの本を反面教師として読んでみた。 タイトルも
 
<日本人の発想、日本語の表現> ではなく
 
<日本人の表現、日本語の発想>
 
とするとおもしろくなる。決まり文句だが<言葉先にありき>だ。反面教師と言えば<ことわざや決まり文句>も反面教師的にとらえることができ、これから著者の<ことわざや決まり文句>から導き出した日本人論とは反対の日本人論ができるのではないか?
 
<ことわざや決まり文句>といえば、中国では四字成語がそれこそゴマン (5万) とあり、よく使われる。文章でもたいていはやたら四字成語を使って話を進めるので、四字成語をゴマン知らない読者には読み進めるのがむずかしくなる。相反する四字成語もこれまたゴマンとある (誇張表現) 。これが中国人論ともいえる。
 
さて、話はこれからタイトルの " 助動詞<た>と接続助詞<て>の関係 "  になる。この本の
 
VI <成り行き>の論理 ー 他力的発想と近視眼的思考
 
の中にサブタイトル
 
1)日本語の<た>は本当に過去や完了を表わすか
 
と、これに続いて接続助詞<て>について詳しく説明している、サブタイトル
 
2)日本語の条件表現は客観的なものか 
 
という部分がある。

1)日本語の<た>は本当に過去や完了を表わすか

では

― 日本語の<た>は、学校文法などでは過去や完了を表わす助動詞として扱っているが、はたしてそうであろうか。筆者には。これも話者の視点にもとづく状況把握に結果と思えてならないのだが。

 ー <明日の朝、一番早く起きた子にご褒美をあげよう>と言ったとして、この<起きた>の<た>は何だろうという問題がある。<た>を過去とか完了とか言っているが、ここはそうではない。

(中略、日本語には英語のような時制はない、ようなことが書いてある)

<た>を付けるか付けないかの判断は、文脈の中で折々のことの成立に対する話者の認識によるわけで、発話時の現在からみての判断ではない。もっとはっきり言えば、時の過去とか事態の完了とかによるのではなく、対象とする事柄を己が間違いなくそうだと把握した認識の成立が<た>を使わせたとみてもいいのではないか。

(中略)

極端な言い方をすれば、話中の事柄の成立時点で決まるのではなく、それを認識する話者の判断として、間違いなく成立したか否かで決まると言ってもいいのではなかろうか。

以上がポイントといえる。 <もっとはっきり言えば>、<極端な言い方をすれば>がポイントの前にあるので、かなりの強調だ。

<明日の朝、一番早く起きた子にご褒美をあげよう>は

<明日の朝、一番早く起る子にご褒美をあげよう>

でもよく、こちらの方は<新しく、正しい>日本語に聞こえる。 

参考に手元の辞書(三省堂)にあったみた。予想に反して、なんと同じようなことが書いてある。これまた大きな驚きだ。

辞書(三省堂)


その事柄がすでに実現し、結果が表れているものと認められる (見なす) という主体の判断を示す。

きのう雨が降った
新聞はもう読んだ
この辺は昔さみかったろう
私がやったらできなかった
今度会った時に話そう
すまなかったね
明日は月曜日だったっけ
帽子をかぶった人(かぶっている人)
絵にかいたような景色 (かいてある)

残念ながら、例文の多くは <その事柄がすでに実現し、結果が表れているものと認められる (見なす) という主体の判断を示す>では説明が難しい。辞書はスペースがきわめて限られているので、いちいちの説明は不可能だ。

今度会った時に話そう

今度会う時に話そう

でもいい。 これまたこちらの方は<新しく、正しい>日本語に聞こえる。

明日は月曜日だったっけ

日本人の発想、日本語の表現>の方にやや詳しい説明がある。

来年はうるう年だった。
明日は英語のテストがあったっけ。
あなたは、どなたでしたか?
あ、ここにあった。
やっとバスが来たぞ。 

などの例をみれば<た>の使用が決して時の過去や完了でないことが、おわかりいただけるであろう。まさに事態の発見、己の定かでなかった事柄を改めてそうと認識した (もしくは、確かめた) ことの現れなのである。


辞書(三省堂) の解説を少し変えてみる。


その事柄がすでに実現し、結果が表れているものと認められる (見なす) という主体の判断を示す。


ある事柄が確定し、間違いないものと認められる (見なす) という主体の判断を示す。

で何とかなりそう。 

あなたは、どなたでしたか?

疑問文で、しかも不定疑問文なので<間違いないものと認められる>は適応できない。

あなたは、山田さんでしたか?

であれば、肯定文は

あなたは、山田さんでした。

となり、<間違いないものと認められる>が適応でき、その疑問文とすれば問題ない。

 まだ課題がたくさん残っているが

助動詞<た>と接続助詞<て>の関係 

に話を進める。

接続助詞<て>は多義で、きわめてややこしいが助動詞<た>自体に連用形がないとすると、助動詞<た>の連用形代用法が接続助詞<て>にあると言っていいだろう。この場合

対象とする事柄を己(話者)が間違いなくそうだと把握した認識がある(日本人の発想、日本語の表現)

または

その事柄がすでに実現し、結果が表れているものと認められる (見なす) という主体の判断を示す。(三省堂辞書)

あるいは

ある事柄が確定し、間違いないものと認められる (見なす) という主体の判断を示す。(SPTT)

の意味がないといけない。接続助詞としての<て>をネットで調べてみると

Wiki

1)確定の順接  お腹が減って死にそうだ
2)動作や作用の継続  帰ってすぐ食べる。
3)並立  美しくて明るい。
4)補助の関係  観衆が見ている。

1)は<確定>が出て来ている。

2)は時制としては近未来だが、<帰って>には

ある事柄が確定し、間違いないものと認められる (見なす) という主体の判断を示す。

で説明できる。

3)はダメ。

4)は<補助の関係>がよくからないが、 <観衆が見た、そしてその状態が続いている>とすれば

ある事柄が確定し、間違いないものと認められる (見なす) という主体の判断を示す。

が適用できる

したがって

助動詞<た>と接続助詞<て>は関係がある。

と言っていいだろう。

上で紹介したが<日本人の発想、日本語の表現>の中には

 接続助詞<て>についての詳しく説明がある。

 VI <成り行き>の論理 ー 他力的発想と近視眼的思考
 
2)日本語の条件表現は客観的なものか 

内容は接続助詞<て>は多義語で、場合によりけりでいろいろな意味になる。
 
と言うようなことが書いてある。 <とわざや決まり文句>の引用も多い。次回のポストは接続助詞<て>ついて。
 
 
sptt

 


 

 

 


 

 

 

 


 

 

 

 

 

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