1)日本語の<た>は本当に過去や完了を表わすか
では
― 日本語の<た>は、学校文法などでは過去や完了を表わす助動詞として扱っているが、はたしてそうであろうか。筆者には。これも話者の視点にもとづく状況把握に結果と思えてならないのだが。
ー <明日の朝、一番早く起きた子にご褒美をあげよう>と言ったとして、この<起きた>の<た>は何だろうという問題がある。<た>を過去とか完了とか言っているが、ここはそうではない。
(中略、日本語には英語のような時制はない、ようなことが書いてある)
<た>を付けるか付けないかの判断は、文脈の中で折々のことの成立に対する話者の認識によるわけで、発話時の現在からみての判断ではない。もっとはっきり言えば、時の過去とか事態の完了とかによるのではなく、対象とする事柄を己が間違いなくそうだと把握した認識の成立が<た>を使わせたとみてもいいのではないか。
(中略)
極端な言い方をすれば、話中の事柄の成立時点で決まるのではなく、それを認識する話者の判断として、間違いなく成立したか否かで決まると言ってもいいのではなかろうか。
”
以上がポイントといえる。 <もっとはっきり言えば>、<極端な言い方をすれば>がポイントの前にあるので、かなりの強調だ。
<明日の朝、一番早く起きた子にご褒美をあげよう>は
<明日の朝、一番早く起る子にご褒美をあげよう>
でもよく、こちらの方は<新しく、正しい>日本語に聞こえる。
参考に手元の辞書(三省堂)にあったみた。予想に反して、なんと同じようなことが書いてある。これまた大きな驚きだ。
辞書(三省堂)
”
その事柄がすでに実現し、結果が表れているものと認められる (見なす) という主体の判断を示す。
きのう雨が降った
新聞はもう読んだ
この辺は昔さみかったろう
私がやったらできなかった
今度会った時に話そう
すまなかったね
明日は月曜日だったっけ
帽子をかぶった人(かぶっている人)
絵にかいたような景色 (かいてある)
”
残念ながら、例文の多くは <その事柄がすでに実現し、結果が表れているものと認められる (見なす) という主体の判断を示す>では説明が難しい。辞書はスペースがきわめて限られているので、いちいちの説明は不可能だ。
今度会った時に話そう
は
今度会う時に話そう
でもいい。 これまたこちらの方は<新しく、正しい>日本語に聞こえる。
明日は月曜日だったっけ
は<日本人の発想、日本語の表現>の方にやや詳しい説明がある。
”
来年はうるう年だった。
明日は英語のテストがあったっけ。
あなたは、どなたでしたか?
あ、ここにあった。
やっとバスが来たぞ。
などの例をみれば<た>の使用が決して時の過去や完了でないことが、おわかりいただけるであろう。まさに事態の発見、己の定かでなかった事柄を改めてそうと認識した (もしくは、確かめた) ことの現れなのである。
辞書(三省堂) の解説を少し変えてみる。
”
その事柄がすでに実現し、結果が表れているものと認められる (見なす) という主体の判断を示す。
”
ある事柄が確定し、間違いないものと認められる (見なす) という主体の判断を示す。
で何とかなりそう。
あなたは、どなたでしたか?
疑問文で、しかも不定疑問文なので<間違いないものと認められる>は適応できない。
あなたは、山田さんでしたか?
であれば、肯定文は
あなたは、山田さんでした。
となり、<間違いないものと認められる>が適応でき、その疑問文とすれば問題ない。
まだ課題がたくさん残っているが
助動詞<た>と接続助詞<て>の関係
に話を進める。
接続助詞<て>は多義で、きわめてややこしいが、