<気は心>というタイトルのポストをだいぶ前(2012年)に書いている。
<気>や<心>や<気分>が純形式名詞ではないが形式名詞的な使い方があり、調べているうちに<気は心>を思い出した。形式名詞と言うのは、これまた定義がややこしく、完全ものはないが、おおよそ
”
A こと、もの、ところ、わけ、はず、つもり / よう、の
B (略)
これらは、独立した名詞としての用法のほかに、実質的な意味が薄まって(抽象化し)、常に他の言葉によって修飾される用法でも使われるようになったものです。
上のAのグループは、述語を受ける用法が重要なもので、特に「-だ」をつけて文末の「ムード」となる用法があるものです。その場合、本来の名詞としての意味は希薄になり、用法も広く、いかにも機能的な語になります。それらの中で微妙な使い分けがあり、学習者には習得しにくく、日本語教師にとっても難しいものです。
”
<こと、もの、ところ>が代表。<気>と<心>と<気分>では<心>は抽象化が進んでいないが、<気>と<気分>は
する気がある
その気になる
どんな気がする?
する気分じゃない
そんな気分にはなれない
どんな気分ですか?
と言え、形式名詞の資格がある。一方<心>は
する心がある
その心になる
どんな心がする?
はほとんど使われないので形式名詞とは言えない。<心>は<心>にとどまっている。方<気>の方は<気>の元の意味が拡大、派生して抽象化した意味の用法がある。この形式名詞の説明は<気は心>の解釈に役立つところがある。
形式名詞は単独では主語になれない、という原則になっている。
<気は心>では<気>は主語になっている。この場合<気>は元の意味でないといけないのだが、実際には<気>の意味は拡大、派生していろいろな意味になっており、どれが、何が<気>の本来の意味だか分からなくなっている。
別のところでかなり詳しく調べたが (sptt やまとことばじてん<気は心>か -2)、<気>と<心>は別物なのだ。違いを抽象化して大雑把に比べてみると
1)<気>は短期的、刹那的。<心>は長期的、永続的。
<楽しい、うれしい>は <気>の現われ。<しあわせ>は<心>の現われ。
中国語では happy を<開心>と訳し、<幸福>は使われないと言っていい。<開心>には<心>の字が使われているが、総じて短期的、刹那的な<楽しい、うれしい>気分のことだ。
2)<気>は概して浅薄、薄っぺらだ。一方<心>は深刻、奥が深い。
3)<気>は英語の mind 相当。<心>は heart 相当。
以上から、<気は心>の一つの解釈として
気は表面的な意図で、心は隠れた深い思い。気 (意図) がないと始まらないが、大事なのは心だ。心の深さは表面的な意図とは関係ない。したがって受け手にとっては取るに足らないもの、金額であっても贈り手の心の深さとは関係ない。
こう解釈すると、贈り手が言う
つまらないものですが、<気は心>と言いますのでどうかお納 (おさ) めください。
は謙譲表現とは言え、本当にまごころがこもっていないと、中身のない形式的セットフレイズになりかねない。例えば、大金持ちが
つまらないものですが、<気は心>と言いますのでどうかお納 (おさ) めください。
と言ってもまごころは伝わりにくい。ケチな大金持ち (これは多い) と思われかねない。
別の例では
気が気でない
と言うのがある。この例文の<気>は何か? 少なくとも一番目の<気>と二番目の<気>は違うだろう。
精選版 日本国語大辞典 「気が気でない」の意味・読み・例文・類語
き【気】が 気(き)でない
ひどく気がかりである。気にかかって心が落ち着かない。気が心でない。
と言う説明さえある。これだと
一番目の<気>は<気>で、二番目の<気>は<心>になる。少なくとも<気>は<心>より意味が広いのだ。
sptt
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