以前に<老子>のブログを書いたが (まだ終わっていない) 、前書きとして
”
老子はレトリック好きだ。もっとも老子に限らず概して中国人は、特に学のある人でなくとも、中国語では日本語の助詞にあたる語が活躍しないため、効果的な言葉の並べ方やレトリックを自然的に発達させている。レトリックを使う基本的な目的は、意識的にも無意識的にも、内容そのものよりも、語り手が聞き手に、話の内容を納得させるのを目的として言葉の効果を最大限に生かそうということだ。したがって極端な例として、話の内容が<なにか悪いことをさせる>ものであっても、それを聞き手に納得させ、さらには実行させるのに成功すればレトリックを使う目的は達成されたことになる。
”
また、前回のポスト ”<まだしも>とはどういう意味か?” では
”<まだしも>
手元の辞書 (三省堂) の解説は
<一方は許容するが、比較の対象のもう一方は許容しない>という論法 (修辞法、レトリック)
のようなことが書いてある。
”
<まだしも>は<まだ>と<しも>の複合語でやや複雑。レトリック助詞ではない。副詞扱いのようだ。では、そもそも日本語に<レトリック助詞>というのはあるのか?
昔は (古語では) <係り結び>というのがあり、レトリックの目的の一つである強調のために使われていた。代表は<こそ>で
「こそ」→文末は「已然形(いぜんけい)」・意味は強調
文法的には、 文末が已然形になるところがミソで<こそ>に呼応しているのだ。<こそ>はこの用法から<係助詞>と分類されている。現在はこの<係り結び>が使われず<こそ>だけで強調の働き(意味ではない) があり、副助詞 (副詞的な助) で分類されることもある。
さて上で
<こそ>は昔はレトリックの目的の一つである強調のために使われていた。
と書いて過去の遺物のように書いたが、どっこい<こそ>は現代でも強調のために使われている。しかも、どのような変遷でか調べていないが、特定動詞形との呼応のない言い方もあるが、場合によっては規則的に仮定形、未然形に呼応しているのだ。手元の辞書をコピー、ペイストすると、
1)強調 (特定動詞形との呼応がない)
私こそ失礼しました。君だからこそ相談するのだ。
自分でやってこそ、初めてわかる。
2)前件を理由とし、後件で述べることに必然性があることを表す。
君のことを思えばこそ、こうやって注意しているのだ。
<思えば>の<思え>は仮定形で、これに<ば>がついている。
もし思えば
もし知っていれば (<いれ>は<いる>の仮定形)
で仮定法の前段になる。
もし思えばこそ
もし知っていればこそ
という言い方はない。
もし泳ぎを知っていれば、助かったのだ。
だと、助からなかったことになる。
君だからこそ相談するのだ。
も前件を理由とし、後件で述べることに必然性があることを表す。
で解釈できる。
自分でやってこそ、初めてわかる。
を
自分でやったからこそ、わかるのだ。
と変えると、前件を理由とし、後件で述べることに必然性があることを表す。
になる。<から>は理由を示すのだ。<こそ>のない
自分でやったから、わかるのだ。
で、理由ー>結論はレトリックではなくロジック。この文の後半<わかるのだ>は必然性が薄いようだ。
3)前件の内容を容認し、前件とは対比的な事態を否定する後件と結びつける。
わかりにくい説明だが、例文は
感謝こそすれ、怒ることはなかろう。
苦しみこそあれ、決して楽しい毎日ではなかった。
きれいにこそなれ、シミがつくようなことは絶対ありません。
で、かなり凝った言い方だ。三番目は化粧品の宣伝文句のようだが、レトリック効果がある。<すれ>、<あれ>、<なれ>は仮定形。<する>、<ある>、<なる>は特殊な動詞だ。一般動詞はダメか試してみる。
いい本こそ読め、 くだらぬ本や雑誌を読むのは時間のムダだ。
<時間のムダだ>否定的な内容。
雨こそ降れ、雪になることはあるまい。太郎のことだから、遅れてこそ来 (く) れ 、早く来ることはない。
なにか古風な言い方だ。一般にはこんな言い方はしない。
3)前件の内容を容認し、前件とは対比的な事態を否定する後件と結びつける。
前件の内容を容認し、前件とは対比的で否定的な内容の後件を強調する。
となる。強調部分は後半で、レトリック的ではある。対比、比較はレトリックだ。
4)未然形+ば
否定の強調
押してもひいても、動かばこそ(どうしても動かない)
情け容赦もあらばこそ( 情け容赦はまったくない)
これも風な言い方で、一般にはこんな言い方はしない。
sptt
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