例文から始める。
花子の婿 (むこ) として、次郎はまだしも、太郎はダメだ。(ダメは否定的だ)
花子の婿として、次郎ならまだしも、太郎はダメだ。
婿 (むこ) に<女へん>がついている。辞書で調べてみたら婿は女性 (の家に) に嫁 (とつ) ぐ場合に使うようだ。単なる女性の結婚相手ではないようだ。
手元の辞書 (三省堂) の解説は
<一方は許容するが、比較の対象のもう一方は許容しない>という論法 (修辞法、レトリック)
のようなことが書いてある。上の例でいえば
花子の婿として、次郎なら許容できるが、太郎は許容できない。
ということなのだが、レトリックなので、<太郎は許容できない>が強調されている。レトリックがない平文であれば
花子の婿として、次郎はいいが、太郎はダメ。
<まだ>を使って
次郎はまだいいが、太郎はダメ。
で、かなりニュアンスが違ってくる。全般的に否定的あるいは消極的なのだ。<まあ>、<まあまあ>という言い方があるが
次郎はまあ (まあ) いいが、太郎はダメ。
だが、<まだ>と違って太郎との比較度合が薄れる。
<まだ>に<なら>を加えると
次郎ならまだいいが、太郎はダメ。
で出てくる。これは翻訳調で、<もし>も<ば>もない
xxx なら
で仮定をあらわせる。
次郎ならまだいいが、太郎はダメ。
の<まだ>をとると
次郎ならいいが、太郎はダメ。
で仮定文にはなるがレトリックにはならない。仮定平文だ。<まだ>はレトリック上重要な働きをしている。<まだ>は重要語だが、いくつか違った意味がある。英語の still と似たような意味というか、働きがある。
もう夜7時なのに太郎はまだ働いている。花子は70歳を超えているのにまだ働いている。
この<まだ>は still を使って訳せる。漢語では<依然として>というのがある。例文では明言されていないが
夜7時なら (もう) 働いていないはずなのに
70歳を超えていれば (もう) 働いていないはずなのに
といった想定があり、それとの比較なのだ。このことは重要で想定との比較が暗黙のうちに働いている言い方なのだ。
私は少し広東語ができるが、この<まだ>、正確には<まだxxxない>と否定を含んだ意味で一語の<未(mei)>という語が頻繁に使われる。
太郎未来(mei lai)。(北京語では<太郎还没来>か)
で
太郎はまだ来 (こ) ない、来 (き) ていない。
の意味になり、これは<太郎>が来ることが<想定>されている言い方なのだ。
北京語の<还没来>は日本語に近く、<还>は<まだ>、<没>は<ない>相当。一方広東語の<未>は一語で<まだ xxx ない>なる。<还>は肯定文でも使え
<还有>で<まだある>。広東語では<重有>という。
<まだ>はもっと詳しく検討できるが、別の機会にゆずって、<まだ>に続くしも>について考えてみる。手元の辞書 (三省堂) では<しも>は強調という説明がある 。強調というのはあいまいな説明だが、
おりしも
いましも
だれしも
が例としてあげられといる。この他では部分否定の
必ずしも xxx ない
がある。
花子の婿として、次郎ならまだ、太郎はダメだ。
まだダメではない
花子の婿として、次郎はまだダメではない 、太郎はダメだ。花子の婿として、次郎ならまだダメではない 、太郎はダメだ。
まだヘンだ。逆説の<が>、あるいは対比の<が>を加えると
花子の婿として、次郎はまだダメではないが 、太郎はダメだ。
花子の婿として、次郎ならまだダメではないが 、太郎はダメだ。
で何とかなる。
まだヘンな日本語だが 、次郎も太郎も否定的あるいは消極的に扱われていることに注目しよう。これは<まだしも>にも言えることだ。
<も>を使うと俄然ニュアンスが違ってくる。<も>はどこかで検討したことがあるが、きわめて多用途だ。(”<も>は大助詞 ” というポストを書いている)
sptt
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