<が>は格助詞の代表選手だが(文法書ではたいてい格助詞の一番目にある)、対格としての用法は主格の説明の後に来る。<が>と<は>の違いの説明でもたいていは主格の場合についての議論だ。このポストでは対格の格助詞<が>について調べてみる。文法の説明は大体次のようになっている。
Japan-wiki (as of 01-May-2013)
”
格助詞”
<など>のなかには重要な<感覚動詞>がある。海が見える。
海鳴りが聞こえる
また好悪の代表的な例としては
太郎は花子が好きだ。
花子は太郎がきらいだ。
能力の代表的な例としては
次郎は英語ができる。
ところで、上記のJapan-wiki の説明もそうだが、たいていの比較的簡単な文法書では<対象であることを表す>という説明はあるが<対格>という文法用語が出てこない。一番目として<主格であることを表す>としているのだから、文法解説としては二番目として<対格を表す>の方がいい。
<感覚動詞>、<好き嫌い>、<... たい>、<...できる>は日常頻繁に使われるだけあって、分析は簡単ではない。それぞれの分析は一部過去のいくつかのポストでしたので、ここでは対格の格助詞<が>に的をしぼって話しを進める。
ご飯が食べたい。 <ご飯を食べたい>は間違い。
ピアノがうまい。
海が見える。
海鳴りが聞こえる。
太郎は花子が好きだ。
花子は太郎がきらいだ。
次郎は英語ができる。
<たべる>は動詞。<たい>は助動詞。
<うまい>は形容詞 (うまくない、うまい、うまければ、 と活用する)
<見える>は動詞で、なぜか自動詞とされている。
<聞こえる>は動詞で、これもなぜか自動詞とされている。
<好き>は動詞のようだだが、動詞活用するのは<好く>(他動詞)。<好き>は、好かない、好きでない、好きで、好き、好きな、好きならば、のように活用するが、形容詞か形容動詞あつかいのようだ。(別途検討)
<きらい>も<好き>と同じく、動詞のようだだが、動詞活用するのは<きらう>(他動詞)。きらいでない、きらいで、きらい、きらいな、きらいならば、のように活用する。<好かない>に対応する活用がない。
<できる>は助動詞あつかいか。できない、できて、できる、できる(ひと)、できれば、できよう、と活用するので動詞のようだ。
意味的には<対象>について<が>を使って表現しているので<が>は対格を示す格助詞といえる。しかし、いろいろ文法上の矛盾がでてくる。
1)<見える>、<聞こえる>自動詞とされているが、<が>は対格を示す格助詞とすると、<見える>、<聞こえる>は他動詞としなければならない。しかし、他動詞としては<見る>、<聞く>があるのだ。
海を見る。
海鳴りを聞く。
意識して<見る>、<聞く>ならば他動詞でいいが、大抵は意識しなくても<見たり>、<聞いたり>する、あるいは<見えたり>、<聞こえたり>すろ。このへんが<感覚動詞>の厄介なところだが、おもしろくもある。とりあえず、<を>をとるので、文法上他動詞とする。
さて、
海が見える。
海鳴りが聞こえる。
という表現をもう少し考えてみる。<見える>、<聞こえる>が自動詞とされているのは他に<見る>、<聞く>という文法上正しい他動詞があるためのようだが、<が>の使用も影響しているようだ。<が>を主格を示す格助詞とすれば、<を>をとる目的語(対象語)がないので、<見える>、<聞こえる>は自動詞ということになる。しかし、意味を考えるときわめておかしなことになる。人を関与させてみる。
私は海が見える。 <私が海が見える>は間違い。
私は海鳴りが聞こえる。 <私が海鳴りが聞こえる>は間違い。
あまりこのようには言わないが、見たり(見えたり)、聞いたり (聞こえたり)する人が加わっている。
この例文は<象の鼻は長い>に似ており、<私は>の<私>は<見える>、<聞こえる>の主語、主体ではない。
私には海が見える。
私には海鳴りが聞こえる。
<は>の前に<に>を加えたこの2例の方が日本語らしく、また実際このように発話されることのほうが多いだろう。<私には>は英語でいえば for me (ひとによっては with me か)で、主格ではなく与格になる。
人を関与させても、<海が>、<海鳴りが>に変化はない。
繰り返しになるが、
海が見える。
海鳴りが聞こえる。
の<海>、<海鳴り>が主格あるいは主語というのは意味上どう考えてもおかしい。文法はルール作りの学問なので、 文法はルールが優先し意味が犠牲になることがある。しかし、意味を犠牲にしないで、文法ルール(規則)が説明できれば、それに越したことはない。
そこで、 <が>は<対格の格助詞>を検討してみる。対格をとるためには<見える>、<聞こえる>を他動詞としなければならない。簡単に<見える>、<聞こえる>を他動詞(でいい)とする。こうすると、
海が見える。
海鳴りが聞こえる。
は何の矛盾もなくなる。あるいは、<える>を可能、能力を示す助動詞とすると <次郎は英語ができる>と同じ意味、構造になる。<見える>はいいが、<聞こえる>は<聞きえる> --><聞こえる>の音便変化とみる。
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英語でごく普通に<あること>(大げさに言えば存在)を表すのは
there is XXX. (大げさにいうときは XXX exists.)
で、
<there>は形式主語、<is>存在を示す自動詞、XXXは実際の主語というような<まことしやかな>文法上の説明があるが、これは<苦肉の策>で、<there is XXX>から受ける印象は XXX の存在を示す表現としては弱い。
一方日本語の
XXXがある。
は XXX の存在を力強く表現としている。なぜか?
1) XXX が文頭にきている。 英語は、なんだかよくわからない there が文頭に来ている。
さらに、
2)<XXX がある>の<ある>は存在をあらわす自動詞と文法上は説明される。日本語の場合、<XXX はある>ともいうことができるが、この場合、助詞<は>の意味から、直接的に<存在を示す>というよりは、説明的になる。掘り下げれば、暗黙のうちに、XXX はもうすでに存在しており、とりたてて<XXX の存在>を報告するような表現になる。これに対して、<XXX がある>は、直接的に<XXX の存在>を示す表現だ。
もうひとつ<さら>には、
3) <XXX がある>を XXX は対格、<ある>は他動詞、<が>が対格を示す格助詞とみるのだ。
これはけっして突飛な発想ではない。
<XXX がある>を XXX は対格、<が>が対格を示す格助詞 - この二つは上記の説明から問題ない。
<ある>は他動詞 - これは発想の転換で、XXX は対格、<が>が対格を示す格助詞。だから<ある>は他動詞。
こうすると、 他動詞を用いることにより(自動詞より能動的)さらに強い<XXXの存在>を示す表現となる。これは<there is XXX.>あるいはこれより意味の強い<XXX exists.>という表現とは発想が違う英語の表現<I have XXX>、<We have XXX>に近くなるが(to have は他動詞、XXX 対格(目的語)))、日本語の <XXX がある>は存在を示す<ある>を依然として使っているのが特徴だが、この特徴はわるくない。
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