Friday, May 31, 2013

対格の格助詞<が>


<が>は格助詞の代表選手だが(文法書ではたいてい格助詞の一番目にある)、対格としての用法は主格の説明の後に来る。<が>と<は>の違いの説明でもたいていは主格の場合についての議論だ。このポストでは対格の格助詞<が>について調べてみる。文法の説明は大体次のようになっている。

Japan-wiki (as of 01-May-2013)

格助詞
  1. 主格であることを表す。
    • 来る。
  2. 好悪要求能力などの対象であることを表す。
    • 私は、ご飯食べたい。
    • 彼女は、ピアノうまい。

<など>のなかには重要な<感覚動詞>がある。

海が見える。
海鳴りが聞こえる

また好悪の代表的な例としては

太郎は花子が好きだ。
花子は太郎がきらいだ。

能力の代表的な例としては

次郎は英語ができる。

ところで、上記のJapan-wiki の説明もそうだが、たいていの比較的簡単な文法書では<対象であることを表す>という説明はあるが<対格>という文法用語が出てこない。一番目として<主格であることを表す>としているのだから、文法解説としては二番目として<対格を表す>の方がいい。

<感覚動詞>、<好き嫌い>、<... たい>、<...できる>は日常頻繁に使われるだけあって、分析は簡単ではない。それぞれの分析は一部過去のいくつかのポストでしたので、ここでは対格の格助詞<が>に的をしぼって話しを進める。


ご飯食べたい。 <ご飯食べたい>は間違い。
ピアノうまい。
見える。
海鳴り聞こえる。
太郎は花子が好きだ。
花子は太郎がきらいだ。
次郎は英語ができる。

<たべる>は動詞。<たい>は助動詞。
<うまい>は形容詞 (うまくない、うまい、うまければ、 と活用する)
<見える>は動詞で、なぜか自動詞とされている。
<聞こえる>は動詞で、これもなぜか自動詞とされている。
<好き>は動詞のようだだが、動詞活用するのは<好く>(他動詞)。<好き>は、好かない、好きでない、好きで、好き、好きな、好きならば、のように活用するが、形容詞か形容動詞あつかいのようだ。(別途検討)
<きらい>も<好き>と同じく、動詞のようだだが、動詞活用するのは<きらう>(他動詞)。きらいでない、きらいで、きらい、きらいな、きらいならば、のように活用する。<好かない>に対応する活用がない。
<できる>は助動詞あつかいか。できない、できて、できる、できる(ひと)、できれば、できよう、と活用するので動詞のようだ。

意味的には<対象>について<が>を使って表現しているので<が>は対格を示す格助詞といえる。しかし、いろいろ文法上の矛盾がでてくる。

1)<見える>、<聞こえる>自動詞とされているが、<が>は対格を示す格助詞とすると、<見える>、<聞こえる>は他動詞としなければならない。しかし、他動詞としては<見る>、<聞く>があるのだ。

海を見る。
海鳴りを聞く。

意識して<見る>、<聞く>ならば他動詞でいいが、大抵は意識しなくても<見たり>、<聞いたり>する、あるいは<見えたり>、<聞こえたり>すろ。このへんが<感覚動詞>の厄介なところだが、おもしろくもある。とりあえず、<を>をとるので、文法上他動詞とする。

さて、

見える。
海鳴り聞こえる。

という表現をもう少し考えてみる。<見える>、<聞こえる>が自動詞とされているのは他に<見る>、<聞く>という文法上正しい他動詞があるためのようだが、<が>の使用も影響しているようだ。<が>を主格を示す格助詞とすれば、<を>をとる目的語(対象語)がないので、<見える>、<聞こえる>は自動詞ということになる。しかし、意味を考えるときわめておかしなことになる。人を関与させてみる。

私は海見える。  <私が海見える>は間違い。
私は海鳴り聞こえる。   <私が海鳴り聞こえる>は間違い。

あまりこのようには言わないが、見たり(見えたり)、聞いたり (聞こえたり)する人が加わっている。

この例文は<象の鼻は長い>に似ており、<私は>の<私>は<見える>、<聞こえる>の主語、主体ではない。

には見える。  
には海鳴り聞こえる。  

<は>の前に<に>を加えたこの2例の方が日本語らしく、また実際このように発話されることのほうが多いだろう。<私には>は英語でいえば for me (ひとによっては with me か)で、主格ではなく与格になる。

人を関与させても、<海>、<海鳴り>に変化はない。

繰り返しになるが、

見える。
海鳴り聞こえる。

の<海>、<海鳴り>が主格あるいは主語というのは意味上どう考えてもおかしい。文法はルール作りの学問なので、 文法はルールが優先し意味が犠牲になることがある。しかし、意味を犠牲にしないで、文法ルール(規則)が説明できれば、それに越したことはない。

そこで、 <が>は<対格の格助詞>を検討してみる。対格をとるためには<見える>、<聞こえる>を他動詞としなければならない。簡単に<見える>、<聞こえる>を他動詞(でいい)とする。こうすると、

見える。
海鳴り聞こえる。

は何の矛盾もなくなる。あるいは、<える>を可能、能力を示す助動詞とすると <次郎は英語ができる>と同じ意味、構造になる。<見える>はいいが、<聞こえる>は<聞きえる> --><聞こえる>の音便変化とみる。

----

英語でごく普通に<あること>(大げさに言えば存在)を表すのは

there is XXX.   (大げさにいうときは XXX exists.)

 で、

<there>は形式主語、<is>存在を示す自動詞、XXXは実際の主語というような<まことしやかな>文法上の説明があるが、これは<苦肉の策>で、<there is XXX>から受ける印象は XXX の存在を示す表現としては弱い。

一方日本語の

XXXがある。

は XXX の存在を力強く表現としている。なぜか?

1) XXX が文頭にきている。 英語は、なんだかよくわからない there が文頭に来ている。

さらに、

2)<XXX がある>の<ある>は存在をあらわす自動詞と文法上は説明される。日本語の場合、<XXXある>ともいうことができるが、この場合、助詞<は>の意味から、直接的に<存在を示す>というよりは、説明的になる。掘り下げれば、暗黙のうちに、XXX はもうすでに存在しており、とりたてて<XXX の存在>を報告するような表現になる。これに対して、<XXX がある>は、直接的に<XXX の存在>を示す表現だ。

もうひとつ<さら>には、

3) <XXX がある>を XXX は対格、<ある>は他動詞、<が>が対格を示す格助詞とみるのだ。

これはけっして突飛な発想ではない。

<XXX がある>を XXX は対格、<が>が対格を示す格助詞 - この二つは上記の説明から問題ない。

<ある>は他動詞 - これは発想の転換で、XXX は対格、<が>が対格を示す格助詞。だから<ある>は他動詞。

こうすると、 他動詞を用いることにより(自動詞より能動的)さらに強い<XXXの存在>を示す表現となる。これは<there is XXX.>あるいはこれより意味の強い<XXX exists.>という表現とは発想が違う英語の表現<I have XXX>、<We have XXX>に近くなるが(to have は他動詞、XXX 対格(目的語)))、日本語の <XXX がある>は存在を示す<ある>を依然として使っているのが特徴だが、この特徴はわるくない。


sptt






Wednesday, May 29, 2013

the は<その>か?


定冠詞にしろ不定冠詞にしろ冠詞は英語その他の欧州語でごく一般的にそれこそ無数に使われてている。一方日本語にはないので、訳す場合に頭をいためる。解決策はいくつかある。日本語に冠詞はないが、助詞<が>と<は>はかなりな程度<定>と<不定>の区別がある。この区別はほぼ無意識のうちにおこなわれるが、欧米人がほぼ無意識のうちに定冠詞と不定冠詞を区別して使うのと同じだ。ここでは無意識を意識化してみる。不定冠詞は別の機会に検討するとして、このポストでは定冠詞 the をとりあげる。

<が>と<は>の<定>と<不定> の区別

誰が行きますか?

<誰> は疑問詞だが、疑問であれば当然不定(不特定)である。

どこが痛いですか?
どちらがいいですか?
何時が都合ががいいですか?

以上は

行きますか?
どこ痛いですか?
どちらいいですか?
何時都合ががいいですか?

とは絶対にいわない。間違いなのだ。<は>は不定(不特定)の主語(主題)とは結びつかない。

the はたいてい<その>と訳されるが、忠実に the を<その>、<その>、<その>と訳していくと日本語らしくなくなる。

例 )
The content of the accident which the driver of the bus company reported was different from the fact.
そのバス会社のその運転手が報告したその事故のその内容はその事実と違っていた。
 

そもそも the = <その>だろうか。 the は定冠詞だが、<その>は指示詞、もっと具体的には形容詞的指示修飾語だが形容詞の活用はしない(ある文法書では<の>がつく連体詞となっている)。

日本語の指示詞はきわめて文法規則的に発達しており、世界に冠たるものがある。いわゆる<こそあど、ko-so-a-do>だ。<こそあ、ko-so-a>は指示語だが<ど、do>は疑問詞だ。

指示詞(限定語=determiner、修飾語)
この
その
あの
疑問詞(修飾語)
どの
--
指示詞(英文法からすると指示代名詞のようだ)
これ
それ
あれ
疑問詞
どれ、どちら、どこ、
--
場所指示詞
ここ
そこ
あそこ
場所疑問詞
どこ
--
方向指示詞
こちら
そちら
あちら
方向疑問詞
どちら
--
擬似人称指示詞-1
こちら(こちとら)、こちら(のかた)
そちら(のかた)
あちら(のかた)
疑問詞
どちら(のかた、さま)
-- 
擬似人称指示詞-2
こなた(相撲の行事が使う)
そなた (古語)
あなた
疑問詞
どなた(さま)
-- 
副詞的指示詞
こう(する)、このように(する)
そう(する)、そのように(する)
ああ(する)、あのように(する)
副詞的疑問詞
どう(する)、どのように(する)

基本的には<こ>は話し手に近いモノ、場所、<そ>は聞き手に近いモノ、場所、<あ>は話し手からも、聞き手からも離れているモノ、場所を指し示す(指示)。具体的なモノ、場所。コトに関しては、目に見えない観念的なコトなので様子が少し違ってくるようだが、それでもこの基本原則が働く。指示詞(語)なのだ。

このコト
そのコト
あのコト

この本はもう読んだ。
その本はもう読んだ。
あの本はもう読んだ。

この場合<本>は具体的、物理的に存在するモノとして話されているとも、読む対象としてコト化(心理上、観念上のモノ)して話されているともいえる。コト化されると心理上、観念上のコトなので、物理的、位置的、距離的な制約がゆるむと同時に時間の観念が入ってくる。

こんなコト  a thing like this
そんなコト     a thing like that  (such a thing という冠詞 a が such の後に来る表現もある)
あんなコト     a thing like that

話しは込み入ってくるが上記3例は不定的な指示用法だ。

さて本題の、そもそも the = <その>だろうか?  について考えてみる。

英語の指示代名詞には this と that があり、次のように対応させられている。

this - 指示形容詞として<この>、指示代名詞として<これ>

that -  指示形容詞として<その>、<あの>、指示代名詞として<それ>、<あれ>

指示詞に関しては日本語が<こ、そ、あ>と三つあるのに対して英語は this と that の二つしかなく、1対1の対応がむりなので、こうなったのだろうが、当然正確な対応ではない。this - <この>、<これ>は1対1の対応のようだが正しくない場合がでてくると思うが、大雑把にいえば、話し手に近いモノ、場所、コトを示すようだ。that は<聞き手に近いモノ、場所、コト>を示すとは限らない。むしろたいていは<話し手からも、聞き手からも離れているモノ、場所、コト>を示す。もっとも、元来英語には日本語の<こ、そ、あ>の区別、特に<聞き手に近いモノ、場所、コト>を指す語はない。以上にはコトを含めたが、上述のようにコト化されると物理的な制約はゆるむ。

 ところで、英語には it、とその所有格、形容詞形(修飾語)の its がある。 it は指示詞ではなく、純正、正真正銘の代名詞だ。 it は<それ>、 its は<その>と訳される。<それ>、<その>は上記の<聞き手に近いモノ、場所、コト>を指示詞だが、<それ>、<その>は代名詞的な働きもある。<これ>、<あれ>も代名詞的な働きはある。但し、<あれ>は<不定代名詞>的な側面もある。

例) あれ(あの話)はどうなっている?

話者が具体的に知らない(忘れた)か、あえて具体的に言いたくない場合に<あれ(あの)>が使われる。

さて定冠詞 the だが、これは語源的には定冠詞 the は that 由来のようだ。実際、定冠詞と指示詞はそれぞれ文法上の定義はあるが区別は必ずしも明確ではない、というよりは曖昧なところがけっこう残っている。 決定的な意味の違いなく the を that で置き換え可能な場合が多い。問題は日本語に文法上定冠詞がないとして<その>、<この>、<あの>に定冠詞的な働きがあるかどうかだ。

日本語には定冠詞がないが、指示詞性が弱まった指示詞、特にコト化した場合、定冠詞的な働きになるようだ。

1) この本を取ってくれ。
2) その本を取ってくれ。
3) あの本を取ってくれ。

上記3例では、現物の<本>が話題になっており、(指で示すような)指示詞的な用法だ。それぞれ

1) Please take this book.
2)   Please take that book.
3) Please take that book.

になるだろう。

1) これはもう読んだ。
2) それはもう読んだ。
3) あれはもう読んだ。 

はそれぞれ

1) I (have) already read this.
2) I (have) already read it.
3) I (have) already read that.

になりそうだが、2) I (have) already read it. の it は指示詞でなく代名詞だ。一方日本語の<2) それはもう読んだ>は曖昧なところがある。指示詞だか代名詞的用法だかは状況による。

1) この本はもう読んだ。 
2) その本はもう読んだ。 
3) あの本はもう読んだ。

上記3例では、

<この本はもう読んだ>の<この本>は現物の<本>の意味が強いが、現物の<本>でなくても、話題になっている本、特に話し手に心理的に近い<本>であれば、<この本はもう読んだ>といえる。<その本はもう読んだ>と<あの本はもう読んだ>の<その本>、<あの本>は現物の<本>の意味は弱く(ゼロではない)、心理上の<本>になっている。特に<その本>は<その>が<聞き手に近いモノ、場所、コト>を示す>ので、聞き手が話題にしている本をさすことになる。それぞれ

1) I (have) already read this book.
2) I (have) already read that book. (its book は明らかに間違い)
3) I (have) already read that book.

となるようだが、 2)と3)の英語は同じ意味になってしまう。

1)  I (will) tell you a story. The story is ....  きみに話をひとつしよう。この話.....

 この場合<その話.....>、<あの話.....>はおかしい。<話(というの)は.....>、<話こうだ。.....>ともいえる、が意味が微妙に違う。また、注意したいのは、<>を使えば、かならずしも<この>を使わなくて指示性が表せるということだ。
英語の場合、 I (will) tell you a story. This story is .... ともいえるが、むしろこの方が日本語の<この話は.....>の意に近くなる。

2) You told me a story. The story is ..... あなたははわたしに話をひとつした。(君は僕に話をひとつした(男版))。その話.....

この場合<この話.....>はあきらかにヘンだ。また、You told me a story. That story is ..... でもよく、むしろこの方が日本語の<その話>に近い。この場合も、<話(というの)は.....>、<話こうだ。.....>ともいえる。また<あの話.....>でも場合によってはよさそうだ。どういう場合か。時間がからんでくる。

You just told me a story. The story is .....

この場合<あの話.....>はヘンで<その話.....>でないとだめだ。

You told me a story yesterday. The story is .....

この場合<その話.....>はヘンで<あの話.....>でないとだめだ。

3) Taro told a story to Hanako. The story ......  太郎は花子に話をひとつした。あの話.....

この場合も<あの話.....>が普通のようだ。<この話.....>はかなりヘンだ。<その話.....>でもダメではない。この場合でも<話(というの)は.....>、<話こうだ。.....>ともいえる。<Taro told a story to Hanako. That story ......>は日本語の<太郎は花子に話をひとつした。あの話.....>に近くなる。<その話.....>でもダメではない、のダメではない場合はどういうばあいか。

話し手は太郎の話の内容を知っている(すくなくとも太郎が花子に話をしたことを知っている)。いわば関係者だ。この場合聞き手は関係者ではない。

太郎は花子に話をひとつした。この話..... 

の場合、 <この話..... >は<太郎の話>ではなく<話し手が今話している話>の意味になりかねない。

太郎は花子に話をひとつした。その話..... 

<その>の指示詞としての意味<聞き手に近いモノ、場所、コト>からすると、<その話.....>はおかしい。<その話の内容は.....>とすると、おかしくなくなる。むしろ<<あの話の内容は.....>よりも自然だ。ここで、<その話..... >の<その>は冠詞的は働きをしているようだ。

注1) 下線付きの<> は<は>が指示的な働きにしろ、冠詞的は働きにしろ<定>性のある語につき、<>は基本的には(意味を変えることなく、あるいは<が>が要請されるよな使い方以外)<が>で置き換えられない-文法法則。
注2) <ひとつの話>は英語の不定冠詞用法の訳で、日本語では<xxxがひとつ、ふたつ .....、たくさん>となる


かなり込み入った解説なので整理してみる。

日本語には冠詞がないので、英語の定冠詞 the は日本語の指示詞の代名詞的用法で対応されている。 日本語の指示詞には<こそあ、ko-so-a>があり、これらの形容詞的指示修飾語(連体詞)のなっている)。 <この、その、あの、kono-sono-ano>が対応できるが、これでは1対3の対応に
なってしまう。<この、その、あの>のうち一番一般化が進んでいる-個別的な指示性から離れて一般的な<定>性の度合いが高い-のが<その>で、したがって the は<その>となりがちだ。一方日本語には<定>性を示す助詞<は>があり、これを意識的に使えば、<その>ばかりにたよることなく<定>性は表せる。

sptt










Friday, May 24, 2013

ドイツ語の副詞 hin と her


ドイツ語の副詞に hin、her という副詞がある。日本語のみならず英語にもこの二つの副詞に一対一で対応する副詞がない。英語やその他の欧州語の不定冠詞、定冠詞は一対一で対応する日 本語がないので、日本人にとって冠詞をよく理解することはもちろん間違いなく使いこなすには相当な時間の学習と訓練が必要だが、hin、her は同じことが言えるだろうか。相良独日大辞典は次のように解説している。

hin - 話し手から遠ざかる運動、方向を表わす。
her  - 話し手の方へ向かう運動を示す。

また、Collins German-English Dictionary (Paper Book) は

静的なWo ist er?、Er ist nicht da. と対比させて、

hin - Movement away from the speaker is shown by the presence of hin. The following adverbs are therefore often used when movement away from the original position is concerned, even though a single adverb used in English.

dahin   -    to there
dorthin -   there
hierhin -    here
igrendwohin - to somewhere 
überallhin -  everywhere
whoin - where to  (これは to where だろう)

her - Movement towards the speaker or central person is shown by the presence of her. The following adverbs are therefore often used to show movement towards a person.

daher  -     from there
hierher -   here
igrendwoher - from somewhere 
überallhher -  from all over
whoher - where from (これは from where だろう)

 -------
hierhin -    here、hierher -   here となっているが、解説はない。検討の価値あり。

使いこなしは別として、hin、her の理解に挑戦してみる。

一回目の挑戦結果

1. hin

典型的な例は

wo geht ihr hin?      where are you going?     君たちはどこへ(に)行く ?    你们去哪里(哪儿 ?


wo  =  where  = どこ = 哪里

gehen  =  to go  =  行く = 

ihr  =  you (plural)  =  君たち = 你们


ドイツ語、日本語、中国語は現在形が英語の現在進行形も表すので(したがって英語が特殊)、英語もこれが可能として、

where are you going?  ------> where (do) you go? とすれば where、go、you の三語。中国語も 哪里、去、你们 の三語なので英語と同じ。一方ドイツ語では hin が、日本語では<へ(に)>が余計にある。この違いの解釈はいくつか考えられる。

wo、where は場所関連の疑問副詞、哪里もほぼ where と同じような使い方。日本語の<どこ>は助詞が必要なので副詞とはいえない。一般化すれば疑問詞ということになる。
  
どこ + 助詞 へ、に、が、を、から、まで、の が付く。<どこ+は>という組み合わせはないが、これは<は>は疑問詞がとれないという特徴だ。

ドイツ語の wo geht ihr hin? は wo という副詞があるにもかかわらず、hin というもうひとつの副詞をとる。英語は where、中国語は<哪里>のひとつの副詞だけだ。日本語は疑問詞<どこ>だけではだめで、助詞<へ(に)>が必要。

日本語の 

疑問詞<どこ>+助詞<へ(に)>

という構造は特殊にみえるが、必ずしもそうとはいえない。

ドイツ語の wo geht ihr hin? は hin のないwo geht ihr? (ドイツ語に相当なれないとこうなるだろう)はだめか?<文法上はいいが、あまりこうは言わない>というのがドイツ人の回答ではないか? hin が付くのは 疑問副詞の wo あるいは動詞 gehen に方向性の意味が弱いからといえる。

1) 疑問副詞の wo は日本語は疑問詞<どこ>に近い。
2) 動詞 gehen は laufen(走る)、 fahren(乗る)、scwimmen泳ぐ)などの移動関連動詞のように(こちらからあちらへという)方向性がない、または弱い。ドイツ語の<歩く>は zu Fuß gehen だ。


疑問副詞や動詞(こちらからあちらへという)方向性がないほうが、言語としては一般化、抽象化が進んでいることになる。方向性は前置詞、日本語では助詞を使えばいいし、この方 が意味が明確に表せる。実際、英語でも、to where、 from where、 in where と普通にいう。中国語でも<从哪里>(どこから)という。但し<在哪里>はくせもので、<在>には存在を示す動詞とともに場所を示す副詞の働きがある(xxにある)。<我在>(私はいます)。

们坐凉亭里,边喝茶边聊天。
 They sat in the arbor and chatted over tea.

 他住一个舒适的小屋里。
 He lives in a cosy little room.


中国語もそう簡単ではなく、ここでは中国語の係り結び<在xxxxx里>が使われている。したがって<>と<里>を分けて考えることもできる。

例文

gehst du auch hin?      are you going too?   wo gehst du hin?      where are you going?   wo geht es hier hin?      where does this go ? (hier hin が使われている)
 
-----

2.her

 典型的な例は

woher kommst du?    where do you come from?   君はどこから来るのか?  你从哪里来? (最後になにかが付くようだ)

woher  =  where ..... from = どこから =哪里

kommen  =  to come  =  来る = 

du  =  you  =  君 =  

her は hin の反義語とされているが、必ずしもそうはいえない。 go の場合と違って英語では from、中国語では<从>がある。上述のCollins German-English Dictionary の her の項も参照。一方ドイツ語では前置詞 from に相当する前置詞 von があるのだがこの例では使われていない。日本語は<行く>の場合と構造的には変化なく、助詞がfrom に相当する<から>に変わっただけだ。文法的には日本語が一番法則的だ。

ドイツ語の woher kommst du? (wo kommst du her ? でもよさそう)は her のない wo kommst du? とは間違わないだろう。 英語で from、中国語で<从>、日本語で<から>を使うからだ。 wo kommst du? では何かたりないのだ。 her が付くのは 疑問副詞の wo あるいは動詞 kommen に方向性の意味が弱いからといえるが、kommen は gehen 以上に方向性が弱い。英語でも to go に比べると to come は、中国語でも<去>に比べると<来>は方向性が弱いといえる。

いずれにしても、gehen、kommen、to go、 to come、行く、来る、去、来 は使用頻度が極めて高い重要動詞で、使われ方の分析は一筋縄ではいかない。上記の分析では、これらの動詞(運動、移動関連動詞)は元来方向性を備えているようだが、その程度はまちまちで、ドイツ語 gehen、kommen、日本語 行く、来る、 は方向性が弱いことになる。

英語では

The dream comes true. といって、The dream becomes true. とはあまり言わない。ドイツ語の kommen に to become の意はない(werden が相当)。The dream comes true. は夢が<来る>わけではない。すくなくとも物理的な方向性をもった<来る>ではない。一方 to become は to come 以上に方向性がない。

北京に春がくる。
東京に地震が来るかもしれない。
隣の寺にお化けが(出て)くる 。

以上の例文では<くる>の方向性はほとんどない。運動はもちろん、移動の感じもない。

hin、her は副詞なので、動詞その他の品詞との係わり具合を調べる必要があうようだ。


注)例文は主にドイツ語http://dictionary.reverso.net/german-english/、中国語http://dict.cn/en/search/から。

sptt

Friday, May 10, 2013

<ある>、戦争と平和の存在



文法上で戦争と平和の存在の問題を考えてみる。

戦争がある。
平和がある。

簡単だがこれだけでも意味がある。<戦争>と<平和>の存在を表わしているのだ。

日本に戦争がある。
日本に平和がある。

あるいは

日本には戦争がある。
日本には平和がある。

と<に>を加えても、 ニュアンスは違うが依然<戦争>と<平和>の存在を表わしている。

 さて、次に

日本は戦争がある。
日本は平和がある。

はどうか? 

依然<戦争>と<平和>の存在を表しているようだが、どうもおかしい。日本が<戦争>、<平和>を所有しているように感じない(感じられない)だろうか? 日本語ではこのあたりでようやく<所有>の意識が少しばかり出てくる。

一方英語や中国語ははじめから

We (They)have a war. We (They)have wars.
We (They)have peace.

Japan has a war. Japan has wars.
Japan has peace.

有戦争。
有平和。
日本有戦争。
日本有平和。


となる。


sptt

形容動詞の分類 - 再考 - 3、漢語由来の形容動詞、xxな、xxの


漢語由来の形容動詞として分類される形容動詞は形容詞的に何かを修飾する場合普通<xxな>となる。


幸福な(たいていは大和言葉の<しあわせな>が使われる) 結末
不幸な 結末
容易な 仕事
難解な 問題
簡単な 問題
複雑な 問題
貧乏な 家庭
裕福な 家庭

以上は基本的に<xxの>では置き換えられない。

幸福の 結末
不幸の 結末
容易の 仕事
難解の 問題
簡単の 問題
複雑の 問題
貧乏の 家庭
裕福の 家庭

したがって、 形容動詞と分類される。形容動詞になれない漢語由来の語がある。前回のポストでとりあげた例としては

戦争な
勇気な
安心な
病気な

これらを何かを修飾する形容詞にする方法はある。<安心な>はまったくダメでもなさそうだ。

戦争がある、戦争している、戦争の
勇気がある、勇気ある、 <勇気の>はおかしい。
安心できる、安心の
病気持ちの、病気の

以上は<戦争的な>、<勇気的な>、<安心的な>、<病気的な>のかたちで何かを修飾することができないが、<xx的な>になる語はたくさんある。 <病気的な>は<病的な >という表現がある。

軍事的な  <軍事な>はダメ
英雄的な  <英雄な>はダメ
家庭的な  <家庭な>はダメ
世界的な  <世界な>はダメ
地域的な  <地域な>はダメ
悲劇的な  <悲劇な>はダメ
経済的な  <経済な>はダメ
政治的な  <政治な>はダメ
日常的な  <日常な>はダメ
科学的な  <科学な>はダメ
文学的な  <文学な>はダメ
機械的な  <機械な>はダメ

<xxな>はダメなので、形容動詞の語幹になれない。なれない理由はこれらの語(軍事、英雄、家庭、etc )がモノ、コトの属性(性質、特徴)をあらわす形容詞の性格(形容詞性)が薄いからだ。但し、ゼロではない。軍事、英雄、家庭、etc はそれぞれに付随した属性はある。<随した属性>を示すのが<的な>だ。<xx>ではダメか?

軍事
英雄
家庭
世界
地域
悲劇
経済
政治
日常
科学
文学
機械

<xx>は<的な>が<その語に随した属性>を表すのに対し、所有、所属、関係、関連を表すようだ。<日常>は例外で、これは<日常的な>とほぼ同じ意味だ。

以下の語はどうか?

特有、 特有
特別、 特別
得意、 得意
無名、 無名
十分、 十分
不足、 不足
上等、 上等

 <xx>でも <xx>でもよさそうだ。これらの語はモノ、コトの属性(性質、特徴)をあらわす形容詞の性格(形容詞性)が濃いが、 <xx>でもいいということは形容動詞として不十分といえる。


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Wednesday, May 8, 2013

形容動詞の分類 - 再考 - 2、漢語由来の形容動詞、戦争と平和、勇気と勇敢、安心と不安


前回のポスト<形容動詞の分類 - 再考>の最後で


いづれにしても漢語由来の形容動詞は程度の差こそあれ完全には大和言葉の形容動詞にはなっていないようだ。

"
と書いたので、形容動詞の分類の調査を続けてみる。

まず、<戦争と平和>について調べてみる。<戦争>と<平和>がならんでいるが、無意識のうちに<戦争>、<平和>とも名詞(体言)と見ている。

名詞(体言)として、

戦争は.... 、戦争が(ある)  -  OK
平和は.... 、平和が(ある)  -  OK

さて、形容動詞チェックをしてみる。

戦争な  -  ダメ
平和な  -  OK

戦争だ
平和だ

これだけでは判定できない。

日本は戦争だ。 -  ダメ (形容動詞として) Japan is a war. ではなく Japan is in a war. Japan has a war.
日本は平和だ。 -  OK  Japan is peaceful.  Japan is in peace. Japan has peace.

以上からみると、<平和>が名詞(体言)、形容動詞としてOKで有るのに対して<戦争>は形容動詞になれない。

大和言葉の形容詞の名詞(体言)化語尾<さ>をつけて

戦争さ  -  まったくダメ
平和さ  -  おおかたダメ


これは前回のポストで書いたが、


中国語は一語、二語(三語のケースはまれのようだ)で語形変化なし(発音も例外はあるが基本的には無変化)で名詞、形容詞、動詞となるとんでもない言語だ。



ということに関連する。中国語で<平和>が名詞とも形容詞ともなる(中国語に形容動詞という分類はない)。ただし、ダメではないが、<平和さ>がほとんど使われないので、形容動詞としての大和言葉化が十分ではないといえる。

次に<勇気>と<勇敢>を調べてみる。

名詞(体言)として、

勇気は.... 、勇気が(ある)  -  OK
勇敢は.... 、勇敢が(ある)  -  おかしい

形容動詞チェック。

勇気な  -  ダメ
勇敢な  -  OK

勇気だ
勇敢だ

これもこれだけでは判定できない。

太郎は勇気だ。 -  ダメ (形容動詞として)
太郎は勇敢だ。 -  OK

大和言葉の形容詞、形容動詞の名詞(体言)化語尾<さ>をつけてみる。

勇気さ  -  ダメ
勇敢さ  -  OK

こう見てくると<勇気>は<戦争>と同じく名詞(体言)で、形容動詞ではない。したがって<さ>がつかない。一方<勇敢>は形容動詞だが<平和>と違って、日本語では名詞(体言)にはなっていない。中国語の融通無碍(ゆうづうむげ)からするとおかしなことだが、形容詞、形容動詞を日本語の名詞(体言)にするためには名詞(体言)化語尾<さ>をつけて<勇敢さ>としなければならない。融通無碍にも<さ>をつけないとだめだ。日本語では融通無碍の四語は名詞(体言)ではなく、形容動詞の<語幹>なのだ。融通無碍な、融通無碍だ。<融通無碍がある、ない>とは特別の場合をのぞき、日本語では変なのだ。あえて言うなら<融通無碍さがある>(いまいち)、<融通無碍なところがある>。


次に<安心> と<不安>を調べてみる。

形容動詞チェック。

安心な  -  ダメではないが、少しおかしい。
不安な  -  OK

安心だ
不安だ

いづれも問題なさそうだが、主語(主題)をつけてみる。

日本は安心だ。
日本は不安だ。

<安心だ>、<不安だ>いづれも形容動詞のようだ。<日本は戦争だ>の<戦争だ>が形容動詞としてダメなのとくらべると、<日本は安心だ>はよさそうだ。<日本は不安だ>の<不安だ>は形容動詞とみていいだろう。

花子は安心だ。
花子は不安だ。

<日本は>の場合の<安心>、<不安>と意味が違ってくる。とりあえず意味の違いは別として<花子は安心だ>の<安心だ>も<花子は不安だ>の<不安だ>も形容動詞とみていいだろう。<安心な日本>、<安心な花子>も変ではない。

形容動詞の名詞(体言)化チェック

安心さは.... 、安心さが(ある)   ダメ
不安さは.... 、不安さが(ある)   かなりダメ (たいていは<不安>でいいだろう)

名詞(体言)チェックが後回しになったが、

安心は.... 、安心が(ある)  -  ダメではないが、少しおかしい。
不安は.... 、不安が(ある)  -  OK

<安心がある>が少しおかしそうだが、どちらも日本語としてダメではない。では

安心が残る。
不安が残る。

はどうか。 <不安が残る>はいいが<安心が残る>はかなりダメだ。<安心>と<不安>はどこがちがうのか?意味が関係してくるのか?

総じて、<不安>が名詞(体言)としても形容動詞としてもかなり日本語化しているのにたいして<安心>は 名詞(体言)と形容動詞の中間あたりをふらついている感じで、<不安>に比べると名詞(体言)としても形容動詞としても日本語化が未熟といえる。


次に<問題>と<課題>を調べてみる。

名詞(体言)として、

問題は.... 、問題が(ある)  -  OK
課題は.... 、課題が(ある)  -  OK

いづれもく名詞(体言)としては問題ない。形容動詞としてどうか?

問題な  -  条件付きでOK。
課題な  -  ダメ

条件付きの条件は何かというと、たとえば、<問題な子>と<問題の子>はとこがちがうか?

問題だ。 
課題だ。

これだけでは判定できない。

<花子は問題だ>。形容動詞としてOK。ただし、<問題な子>の<問題>の意味で、<問題の子>の<問題>の意味ではない。<花子は問題がある>とも言い換えられるが、この場合、文脈(コンテクスト)により、<花子は問題をもっていいる、かかえている>と解釈できなくはないが、普通は<花子は問題だ>の意だ。

<花子は課題だ>基本的にダメ。一方<花子は課題がある>と言うと、これは特別な文脈(コンテクスト)がない限り<花子は課題をもっていいる、かかえている>と解釈できる。

<問題>は中国語の<問題>もそうだが、日本語の<問題>も英語に比べると意味範囲が広い、という意味内容が絡んでくる。

問題 - problem (trouble に近い問題)、issue (話題に近い問題)、 question (試験の問題、problem が使われる場合もある)。

以上の問題は<問題>の意味が関係しているようだが、<問題>と<課題>をくらべると、<課題>は形容動詞の語幹になれず、(<課題な>と言えない)、名詞(体言)。<問題>は名詞(体言)かつ形容動詞の語幹になり、<問題な>と言えるが、意味は限定されており、<問題の>の意味とは異なる。

 形容詞、形容動詞の名詞(体言)化語尾<さ>をつけてみる。

問題さ  -  ダメ。 トラブルを起こす頻度、大きさ、の意になりそうだが、問題の大きさ、とは言うが、<問題さ>とは言わない。
 
課題さ  -  ダメ


ところで、本来<課題>は<問題>が negative な面があるのに対して本来中立な意味あいを
持っていると思うが、本来 negative な面のある<問題>を negative な面を出したくないという意図がはたらいて<課題>を使うことがあるようだ。<大きな赤字の課題をどう解決するか>。英語でも同じような現象があるが、<挑戦(challenge)>を使う。


最後に<元気>、<健康>、<病気>を調べてみる。

名詞(体言)として、

元気は.... 、元気が(ある)  -  OK
健康は.... 、健康が(ある)  -  <健康がある>はおかしい。<健康が第一(だ)>はOK。
病気は.... 、病気が(ある)  -  OK

形容動詞チェック。

元気な  -  OK
健康な  -  OK
病気な  -  ダメ <病気な次郎>はダメで、<病気の次郎>となる。

元気だ  -  OK
元気だ  -  OK
病気だ  -  OKのようだが、<次郎は病気だ>の<病気だ>は形容動詞か。

<病気な次郎>とはいえないので<次郎は病気だ>の<病気だ>は文法上形容動詞ではなさそうだ。しかし、<病気だ>の意味としては(内容は正反対だが)<次郎は元気だ>、<次郎は健康だ>に通ずるものがある。<病気>は<平和>、<不安>、<問題>と同じく名詞(体言)として独立しており、また<平和だ>、<不安だ>、<問題だ>と同じく状態、性質、特徴など、形容詞的な意味を表しており、形容動詞と見ていいようだ。しかし、<病気な>はダメなのだ。

<さ>をつけてみる。
元気さ  -  OK。元気がある、元気が売り物、と言える。
健康さ  -  おおかたダメ。健康さある、はダメ。健康さが売り物、と言えるが、普通は健康が売り物、だろう。
病気さ  -  まったくダメ 。病気さがある、はナンセンス。病気さが欠点、もナンセンス。

元気、健康に比べ<病気>は形容動詞化が進んでいないといえる。


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Tuesday, May 7, 2013

形容動詞の分類 - 再考、漢語由来の形容動詞


かなり前のポスト<形容動詞の分類>で次のような書き出しで形容動詞の分類を試みた。


形容動詞はその名前からして、形容詞なのか動詞なのかはっきりしない。イソップ物語のこうもりと同じで、あるときには形容詞、またあるときには動詞ということか。よく言えば<融通無碍>悪く言えば<二股膏薬>。形容動詞の分類を試みる。


前のポストでは大和言葉の形容動詞の分類がおもだったが、形容動詞は圧倒的に漢語由来が多いので、漢語由来の形容動詞を少し調べてみた。そして、4)漢語由来グループとみなせる形容動詞(漢字)> として、下記の例をあげた。

安全な(だ)
不安な(だ)
危険な(だ)
簡単な(だ)
複雑な(だ)
便利な(だ)、不便な(だ)
有名な(だ)
重大な(だ)
壮大な(だ)
厳重な(だ)
極端な(だ)
正常な(だ)
正確な(だ) 、不正確な(だ)
十分な(だ)
---

以上は二語漢語ばかりなので一語漢語を加えてみる。一語漢語の形容動詞は多くない。多くない理由は元来の一語漢語(中国語由来)の意味は大体大和言葉の形容詞、形容動詞で間に合ったからだろう。探してみると次のような形容動詞がある。

変な
妙な
別な 
得な
損な
純な

さて、前のポスト<形容動詞の分類>に続くポスト形容詞と形容動詞判定のリトマス試験紙<さ>>、形容動詞の分類 - 2 <な>と<の>、第二のリトマス試験紙>分類方法を試みたので、一部は重複するが、この二つの分類方法やってみる。

形容詞と形容動詞判定のリトマス試験紙<さ>

安全
不安
危険
簡単
複雑
便利、不便
有名
重大
壮大
厳重
極端
正常
正確 、不正確
十分
---


 




判断は個人差があると思うが、文脈(コンテクスト)無しで大体OKなのは二語漢語幹で、複雑さ、便利、不便さ、重大さ、壮大さ、厳重さ、極端さ、正確 、不正確。残りの安全さ、不安さ、危険さ、簡単さ、十分、はおかしい、または少しおかしい。但し、まったくダメというわけではない。
OKな二語漢語幹の形容動詞はかなり日本語化している、おかしいのは日本語化していないといえる。一方、一語漢語の語ははまったくダメに近い。中途半端な日本語形容動詞と言える。


次に、形容動詞の分類 - 2 <な>と<の>、第二のリトマス試験紙>

安全な   安全の 
不安な   不安の 
危険な   危険の 
簡単な   簡単の 
複雑な   複雑の 
便利な   便利、 不便な  不便の 
有名な   有名の 
重大な   重大の 
壮大な   壮大の 
厳重な   厳重の 
極端な   極端の 
正常な   正常の 
正確な   正確、 不正確な  不正確の 
十分な   十分
---
変な    変
妙な    妙
別な    別の  
得な    得の 
損な    損の 
純な    純の 


二語漢語幹はダメ。一語漢語幹では<別>はOK,、<純>もOK。他はダメ。二語漢語幹、一語漢語幹にかかわらずおおむねダメだ。ということは、これらは形容動詞なのだ。

注) 語の意味ではなく、語自体を取り上げる、たとえば<重大の意味は....>といったケースは除く。


以下さらに分類を試みてみる。ところで、中国語は一語、二語(三語のケースはまれのようだ)で語形変化なし(発音も例外はあるが基本的には無変化)で名詞、形容詞、動詞となるとんでもない言語だ。

ます<XXがある>としてみる。

安全がある
不安がある
危険がある
簡単がある
複雑がある
便利がある、不便がある
有名がある
重大がある
壮大がある
厳重がある
極端がある
正常がある
正確がある 、不正確がある
十分がある
---
変がある
妙がある
別がある
得がある
損がある
純がある

本来は文脈(context)にもよるのだが, 上記の<句として>でややおかしいのがかなりある。

安全がある
簡単がある
複雑がある
有名がある
重大がある
壮大がある
厳重がある
極端がある (こうもいえる)
正常がある
正確がある 、不正確がある
十分がある
---
変がある
別がある (これは<別のモノがある>の略で、<別>が独立しているわけではない)
得がある
純がある

<句として>おかしくないのは

不安がある
危険がある
不便がある
---
妙がある
損がある

以外と少ない。不安、危険, 不便、妙、損は日本語のなかで名詞(体言)として独立している。他はそうでないといえないか。


さらに<XX なところがある>としてみる。これは少し長いが<さ>と同じく形容詞、形容動詞の名詞(体言)化と言えよう。 美しい -> 美しいところ、つらい -> つらいところ、静かな -> 静かなところ。

安全なところがある
不安なところがある
危険なところがある
簡単なところがある
複雑なところがある
便利なところがある、不便なところがある
有名なところがある
重大なところがある
壮大なところがある
厳重なところがある
極端なところがある
正常なところがある
正確なところがある 、不正確なところがある
十分なところがある
---
なところがある
なところがある
なところがある
なところがある
なところがある
なところがある

意味内容によるが、具体的な場所(ところ)を表す場合、やや抽象化してXXの(ような)箇所、性質を表す場合、あるいは両方を表す場合があるようだ。いくつか適当な文脈(コンテクスト)がないと少しおかしいのがあるが、おかしさは<さ>の場合ほどではない。

ところで、<変な>と<妙な>には、変テコリン(変チクリン、ともいう)、妙チクリン、という面白い口語がある。<リン>は意味があるとすれば中国語由来だろう。大和言葉に<リン>という発音はない。変テコリンな(だ)、妙チクリンな(だ)で形容動詞になる。変テコな(だ)も形容動詞。<テコ>も<チク>も、romatic がロマンチックになることから、同源だろう。romatic <-tic>の音訳は<的>だ。<変な(だ)>形容動詞になるが、<変的>も<経済的な(だ)>、<家庭的な(だ)>などと同じく、<変な(だ)>の派生として<変的な(だ)>のかたちの形容動詞になれる。これを読めば<ヘンテキな(だ)>となる。


結論

いづれにしても漢語由来の形容動詞は程度の差こそあれ完全には大和言葉の形容動詞にはなっていないようだ。また以上の調査では語の意味内容には深入りせず、また文脈(context)もあえて除いて検討したが、漢語由来の形容動詞の場合はの<形容動詞は程度の差>は語の意味内容、文脈(context)に関係していると思う。これは大和言葉の形容動詞の文法上のルール化と対比してみる必要がありそうだ。


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太郎はあぶない。太郎があぶない。


<太郎はあぶない。>は Taro is dangerous.
<太郎があぶない。>は Taro is in danger.

<は>と<が>では大きな違いだ。何がちがう?

<は>は属性、性質、特徴をあらわしている。<あぶない>は形容詞。dangerous も形容詞。静的だ。
<が>は状況をあらわしている。<あぶない>は依然形容詞だが(danger は名詞)、動的だ。少なくとも動の一瞬をとえて、表現している。

花子はこわい。Hanako is frightening. Hanako seems frightened.

<Hanako seems frightened.>は<花子はこわそうだ。>でもいいが。もっと日本語らしい言い方は<花子はこわがっている。>

花子がこわい。(I am, He is,etc) afraid of Hanako.



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Sunday, May 5, 2013

<ある>、<あらわす>、<あらわれる>


<ある>は日本語の動詞のなかで使われる頻度が極めて高いということからも極めて重要な動詞だ。そしてたいていは無意識で使われる。 <ある>は以下に見るように特殊な動詞でもある。

1) <ある>の否定は<ない>で、<あらない>とは言わない。昔は<あら+ず>の<ず>という否定の純助動詞があった。なぜか使わなくなってしまった。

2) xx <が>+<ある>でモノ、コト(出来ゴトを含む)の存在をあらわす。

3) xx <は> yy <で><ある>で存在ではなく、xx(モノ、コト)の属性、性質、特徴(yy)をあらわす。<ある>という動詞が使われることから、(たいてい無意識だが)、より正確には<xx(モノ、コト)の属性、性質、特徴(yy)の存在(あること)>をあらわす。下の5)の解説参照。

4) xx <に><は> yy <が><ある>で<所有>関係をしめす。但し<to have>ほどの<所有>意識はなく、<ある>という語から、存在の意識が強い。ただし、多くは無意識。

太郎には妻子がある。
次郎には金がある。
花子には才能がある。

a )太郎には妻子がある。
b )太郎は妻子がある。
c)太郎に妻子がある。 

a)、b)、c) は微妙にちがう。b )の<太郎は妻子がある>が<所有>関係をしめす度合いが強いようだ。
 
また、内容によっては<所在>をしめす。

次郎の部屋には金がある。 

なお、<次郎の部屋に金がある。 >はいいが、<次郎の部屋は金がある。>はダメではないが少しおかしい。部屋は基本的に金もてないのだ。

5) これは少し考えないとわかりずらいが重要な見方で、モノ、コト、出来事の存在を認識する、していること>をあらわす。認識論がからむが、モノ、コト、出来事の存在とこれらの存在の認識は別のもとする。

前の道路に赤い自動車がある。(大げさになるが<車の存在の認識の表明>とみる)

来週中間テストがある。(<行事の存在の認識の表明>とみる)

けさ大きな地震があった。 <出来事の存在の認識の表明>とみる)

-----

<ある>関連の言葉のうち重要なのは<あらわす>、<あらわれる>という動詞だ。<表に出して見えるようにする>、<表に出てきて見えるようになる>といった意味だ。 <あらわす>の<あらわ>(名詞、体言)、<あらわれる>連用形名詞(体言)」の<あらわれ>も元の意味を濃く残している。これらの語は発音<a-ra-xx>からして明らかに動詞<ある>関連だ。そうすると、動詞<ある>は

1)<存在>そのものをあらわす、2)<存在を認識すること>をあらわす、さらに、3)<あらわすこと>にも関連してくるスーパー動詞だ。 


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Saturday, May 4, 2013

日本語<有(あ)る>は自動詞、英語<to have >、中国語<有>は他動詞


前回のポスト<存在と認識の大動詞<ある>-在(あ)る、有(あ)る、或(あ)る>の続編。前回のポストで念入りに書いたつもりだが、私にとっては大発見であるので、こんどは少し角度を変えて考えてみる。

ポイントは<ある>が存在の<在(あ)る>と認識の<有(あ)る>の両方の意を含んでいることだ。存在の<在(あ)る>はいいとして<有(あ)る>が認識をあらわすことは説明が必要だ。三省堂の新明解国語辞典>の<ある>の解説中(有る、在る、何種類かの<ある>の順に並んでいる)の第一番目の<有る>として、


<有る>

1)見聞きしたり、感じたり、考えたり、などすることによって、その物事がみとめられる(状態を保つ)
2)そなわっていることが認められる((状態を保つ)
3)おこなわれる(はずだ)


と解説している。(前回ポストの繰り返し)

明らかに<有る>は認識をあらわす動詞という説明だ。目で見る、耳で聞く、鼻でかぐ、舌で味わう、肌で感じる(五感)ことでモノの存在、動きを認識する。<考える>はもちろん、五感によるモノの認識でも脳のあたらきがあるが、単純に五感でモノの存在、動きを認識するとする。コトの認識は短時間、長時間、簡単、複雑の差はあるが<考える>(脳のあたらき)が主のようだ。これで認識のプロセスはいいが、問題はなぜこれが<ある>という言葉と関連してくるかだ?認識のプロセスを動詞であらわすとせれれば、見る、聞く、かぐ、味わう、感じるという動詞がある。感覚動詞ということで、これらの動詞を<感じる>で代表させよう。すると、<モノの存在、動きを認識する>は<モノの存在、動きを感じる>でいいわけだ。

前回ポストで


以上は簡潔にいえば、<有る>は<モノ、コトの存在を感じること>をあらわす動詞ということになる。


さらに


基本的には或いは当たり前だが、<ないモノ、コト>、<存在しないないモノ、コト>は認識できない。ここに<存在>がからんでくる。


と書いた。

かなり正しい分析だと思うが、普通の日本語では”<有る>は<モノ、コトの存在を感じること>をあらわす”というような西洋哲学の翻訳的な言い方はしないのだ。

存在をあらわす動詞<ある>と認識をあらわす<感じる>の大きな違いは<ある>が自動詞であるのに対して<感じる>は<XXを感じる>で他動詞ということだ。別のポストで書いたが<感じる>は<感>の字からも<かんじる>とひらがなで書いても大和言葉ではない。見る、聞く、かぐ、味わうは大和言葉だ。見る、聞く、かぐ、味わう、も他動詞だが、微妙に差がある。

XXを見る、XXを聞く、はまあいいが、XX(のにおいを)をかぐ、XXを味わう、とはあまり言わず、

XX(のにおいを)をかぐ、は
XXがにおう、Xのにおいがする、XXの香りがする、などになる。

XXを味わう、は XXの味がする、になる。

漢語由来の<XXを感じる>も XXの感じがする、というのが普通のようだ。

XXを見る、XXを聞く、も、XXが見える、XXが聞こえる、という方が多いだろう。

また以上は単に<を>のあるなしによる他動詞、自動詞の区別ではない。海見れば、声聞けば、で十分日本語であり、<を>がなくても<見る>、<聞く>は他動詞だ。

ヒトの活動である認識はある対象を感じる、とらえることなので、頭の中で使う動詞は他動詞になろう。しかし、言葉は表現だ。認識だけでは頭の中にとどまる。表現方法はひとつではなく、いくつか異なった方法がある。日本語では上記のように、モノ、コトの認識をあらわすのに、本来認識活動は他動詞的であるにもかかわらず、これを表現するときには他動詞より自動詞が使われる傾向にある。

さて、モノ、コトの認識の<存在>をあらわす方法だが、英語、中国語では他動詞の <to have>、<有>だ。<存在>の認識も認識は認識なのだ。これに対し日本語は<ある>を使う。<有る>と漢字を使っても、<ある>は<ある>で、これは自動詞。

また繰り返しになるが、


<有る>は<モノ、コトの存在を感じること>をあらわす動詞ということになる。



<感じる>は<あるモノ、コトを認識した後にそれを心理的に持つこと>に相当する。この<持つこと>をあらわそうとすれば、<持つ>という意味の動詞を使うのは自然なことだ。これが英語、中国語で<to have>、<有>が使われるようになった原因、理由だろう。


 もう一度三省堂国語辞典の今度は<有る>の解説を見てみよう。


<有る>

1)見聞きしたり、感じたり、考えたり、などすることによって、その物事が認められる(状態を保つ)
2)そなわっていることが認められる((状態を保つ)
3)おこなわれる(はずだ)



<XXを認める>ではなく<XXが認められる>だ。<あるモノ、コトの存在を認める>を<to have>、<有>とみるのは可能だが、存在をあらわす<ある>とみるのはまず無理。一方<あるモノ、コトの存在が認められる>を<ある>とみるのは日本人でなくても、心理的な抵抗はあるかもしれないが、可能だ。但し英語、中国語を使うヒトにとっては<認められる>という感じ方、見方は例外的だろう。<コトバ先にありき>とすれば、英語圏、中国語圏の子供たちは、<to have>、<有>をきわめて頻繁に使うことによって、<to have>、<有>がもつ他動詞的な感じ方、見方をするようになるのだ。XXを感じ、XXを見る、のだ。XXが感じられる、XXが見られる、ではない。

認識の存在を表すのに他動詞を用いるのがいいのか、自動詞を用いるのがいいのかは決めがたい。個人的には、モノ、コトはヒトの認識に関係なく存在すると思うので、モノ、コトの存在の認識を表すのに存在の意も兼ねそなえた<ある>を使う、使えるのは主観から生じる間違えを少なくするので、わるくないと思う。しかし<ある>一語で<モノ、コト、(モノ、コトの)動き、出来事、現象>の存在そのものと無意識のうちにこれらの<存在の認識>もあらわしてまうことは、悪い面もあろう(たとえば、<I made a mistake. >と<私に間違いがありました。>の違い)。解決策としては、<ある>が存在そのものだけでなく<存在の認識もあらわす、あらわせる>ことを意識することだろう。そういう意味で、三省堂の新明解国語辞典に感謝する。


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Wednesday, May 1, 2013

存在と認識の大動詞<ある>-在(あ)る、有(あ)る、或(あ)る


<ある>は簡単に<存在を示す動詞>とはいえない。

この発見はごく簡単で、コンピュータワープロで<ある>と打ち込むと、 在る、有る、或る、etc が出てくる。日本語(大和言葉)の<ある>は少なくとも在る、有る、或るのかなり広い意味を含んでいるのだ。

<在る>と<有る>

或る>はあとで述べるとして、<在る>と<有る>の違いだ。<違い>と書いたが、大和言葉の<ある>は<ある>のひとつだけで<在る>と<有る>の違い、区別はないのだ。これは、少なくとも、英語、中国語との大きな違いだ。

<在る>を<存在する>の意とすると、これに相当する英語はまず to exist だ。to be (is, are, am) も<存在する>をあらわせるが、A is B (copula) でも使われるので<存在する>に特化できない。 一方<有る>に相当する英語は意味と使われる頻度からすると to have だ。to have も過去分詞と組になって完了形を作り<助動詞的>な働きがあるが、<有る>に相当する動詞とみていいだろう。

店の前に<新鮮なXXあります>とか<入荷したてのXXあります>とか書いてあれば(あるいは店員が言えば)、その店にXXが存在するのはあたりまえだが、存在を示す以外に何かありそうだ。英語で言えば we have XX で、XX exist(s) はもちろん there is (are) XX とも書いたり、言ったりはしない。

中国語でも<在>と<有>の違いは明らかにあり、間違いなく使い分けられている。

有没有XX? は Do you have XX ? で XX在不在?(語順に注意) は<存在>を問う。XX在不在?は多くの場合XXがヒトなので、日本語では XX いますか?の意になる。英語では Does (Do)XX exist ? の場合もあれば Is (are) there XX ? の場合もある。XXがヒトの場合は Is XX here(there)? となる。また中国語の場合、語順の違いに加えてXXに関して<在>は定、<有>は不定という大原則がある。英語の場合も Is (are) there XX ? のXXは不定だ。

一番の問題(最大の難関)は日本語の<有る>だ。くどいようだが、発音上または耳で聞いた場合に<在る>との違いはない。 <有る>は<存在>を示す以外に何かあるのだ。何があるのか?

コンピュータワープロの説明

有る - 所有 <-> 無い、 --> 財産が有(あ)る。 才能が有(あ)る。
在る  - 存在、所在 --> 要職に在(あ)る。 西にある在(あ)る。


<財産が有(あ)る>、<才能が有(あ)る>と<有>の字を使うと所有を表わすようにみえるが, <財産がある>、<才能がある>と<有>の字を使わない、またはもっと現実的にこのように発話したり、聞いたときにどれほど<有>、<所有>の意識があるかだ?おそらく特別の場合を除けば、ないか、あっても少ないだろう。したがって、<ある>は<所有>をとりたてて表わすわけではない。 to have の意識はうすい。または中国語で<有。>は<あります>となるが、中国語<有>がかなり to have に近いのに比べて、<あります>はかなり to exist, there is (are) に近い。さらに、日本語の<所有>という言葉は日本語漢字で、日本語のこの意味での<所有>はもともとの中国語にはない。中国でも所有権(法律用語か)、所有格(文法用語)はあるようだが、新しい言葉で(日本語漢字の輸入か)、もともと所有(suoyou、四声は無視)は<あるところ(のもの)>で、<所>は中国版の関係代名詞(注)。関係代名詞は日本語にない。中国語の<所有>の意味は<あらゆる>だ。<あら>は<ある>未然形。下記の比較的内容のよいインターネット中国語-英語(漢英)辞典(http://dict.cn/en/search/)の<所有>の英語訳を見ていただきたい。Examples は省略せずにすべてをコピ-した。

Define 所有:   1. all
2. to have
3. to possess
4. to own

Examples:
1. 这家公司现在使用电脑来计算所有的帐目。
   The company now uses a computer to do all its account.
2. 她所有的钱都投放到股票里去了。
   She's got all her money in stocks and shares.
3. 这个国王没有宽容之心,杀死了所有的犯人。
   The king showed no mercy and killed all the prisoners.
4. 玛丽所有的钱是怎么赚到的?
   How did Mary make all of her money?
5. 你列得出动词"have"的所有时态变化吗?
   Can you conjugate "to have" in all its tenses?
6. 你能给所有这些书编目录吗?

   Can you catalog all these books?


例文を見るかぎり、所有(2. to have 3. to possess 4. to own)の意で使われている所有はない。これが現代中国語の<所有>だ。おそらく90%がた to have, to own の所有ではない。または、この意味での動詞ではないだろう。なぜなら中国語の大動詞<有>があるからだ。


上述のコンピュータワープロの説明<有る-所有>はほぼ間違いに近い。<ある>は自動詞だが、<持つ>は他動詞だ。コンピュータワープロの説明に比べると三省堂の新明解国語辞典>(10年くらい前に香港で購入したもの)の<有る>の説明は、さすが言語専門家が書いたようで、<有る>を簡単に有る-所有>では片付けていない。と言うか基本解説(下記)には<所有>という言葉が出てこない。引用が長くなるが次のようになっている。


<有る>

1)見聞きしたり、感じたり、考えたり、などすることによって、その物事がみとめられる(状態を保つ)。
2)そなわっていることが認められる(状態を保つ)。
3)おこなわれる(はずだ)。



そして、用例がかなり示してある。(状態を保つ)は <みとめられる状態を保つ>という意味だろう。

1)と2)が重要で、3)の<おこなわれる(はずだ)>は<試験がある>などの例をあげているが、説明が簡単で(紙面の都合か)、実際<言い換え>で内容の説明になっていない。

1)と2)で<みとめる>ではなく<みとめられる>としているところが、日本語らしい。 <その物事が>は翻訳調または、厳格を重んじる法律文調だが、これは、<その物事(定)>あるいは<ある物事(不定)、としたほうが、文法的により厳格だ。<みとめる>、<みとめられる>だから漢字を使えば認識の問題だ。

1)は簡単に言うと<有る>は<モノ、コトが認識されることをあらわす>だが、これではもう少しつっこんで考えると<モノ、コトが存在する(在る)ことが認識されることをあらわす>で<存在>がからんでくる。基本的には或いは当たり前だが、<ないモノ、コト>、<存在しないないモノ、コト>は認識できない。ここに<存在>がからんでくる。さらに、わざわざ<...ことをあらわす>を加えたのは、言葉であるからには、<有る>は認識だけでなく表現がともなうからだ。 かなり哲学めくが、<有る>は<モノ、コトが存在することが認識されること表現する>となる。さらに面白いのは<あらわす>は<あらわ>+<す>で、<あらわ>も<見える(認識できる)>に関連しているが、明らかに<有る>グループの言葉だ。但し<あらわす>は何も<ある>という言葉にかぎったわけではなく、言葉一般にかかわる。
以上は簡潔にいえば、<有る>は<モノ、コトの存在を感じること>をあらわす動詞ということになる。

2)<そなわっていることが認められる(状態を保つ)>は属性、所属、組成、性質、特徴、関係(所有を含む)に関連してくるが、高所から見れば1)の<そなわっていること(もの)>に特化された用法だ。つまりは、<有る>は<モノ、コトにそなわっているの属性、組成、性質、特徴、関係(所有を含む)の存在を感じること>をあらわす動詞ということになる。

3)<おこなわれる(はずだ)>は<なに>がぬけている。<なにか>といえば、それはモノ、コトのことではなく<できごと>のことだ。<できごと>は<出来事>からすれば、<出て><来る>コトのことだ。日本語の<できごと>は普通<事件>のことを指すようだが、<出て><来る>コトという抽象性からもっと広くとらえて、行事(行われる事)(英語の event 相当)、活動(英語 activity )、事故(英語 accident、incident )を含むとする。こうすると、

試験がある
会議がある
事故があった

などの<ある><あった>の説明ができる。 <有る>は<出来事の存在を感じること>をあらわす動詞ということになる。さらに<おこなわれる(はずだ)>の(はずだ)の説明をしてみる。上記<広い意味>での<できごと>には英語で示したようにいく種類かある。

これから起こる予期された、計画された<できごと> - event
比較的繰り返される event ほどではないが予期された、計画された<できごと> - activity
予期せぬ<できごと> - accident、incident

大きく分ければ、予期、計画された<できごと>と予期せぬ<できごと>の二つだ。 予期、計画された<できごと>の方には(はずの)<できごと>がふくまれる。

<試験がある。>の英語は<There is (will be) an examination.>ではなく<We have (will have) an examination.>だ。(厳格には<We>とは限らない)。同様に、

<会議がある。>の英語は<There is (will be) a meeting.>ではなく<We have (will have) a meeting.>だ。

さて、(はずだ)の説明だが、上記の日本語文、英文には言葉上は(はずだ)がぬけているが、内容的には(はずだ)が内包されている (implied) 場合が普通だ。英語で言えば、

We have an examination (to take).
We have a meeting (to attend).

が内包(丸カッコ)を含んだ文だ。そして<to>は(はずだ)、(べきだ)の意を内包(to imply)する。

<太郎には妻子が有る>は自然な日本語だが、これも英語では There are a wife and children (with, for) Taro. とか As of Taro there are a wife and children. (子は二人以上)ではなく Taro has  a wife and children. となる。

<太郎には妻子が有る>をこれまで述べてきた<ある>を使って説明すると、 <太郎の妻子の存在が認められる>とでもなろうか。

これに関連して、あもしろい文法の説明を発見した。Sagara独日大辞典の動詞 haben の説明の中につぎのようなものがある。<太郎の妻子>をどうみるかだが、上述の属性、所属、組成、性質、特徴、関係(所有を含む)の中から選べるのではないか。

haben の文例: Wir hat gutes Wetter.
説明: 単に主語にとっての存在をしめす。

何の存在かといえば、Wetter だ。動詞 haben が他動詞なので、こういう説明になるのだろう。<太郎には妻子が有る>の主語は太郎ではないが、主語とみると、<有る>は<単に太郎(主語)にとっての妻子の存在をしめす>となるのか。



<在る>

<在る>は基本的に存在、所在でいいだろう。存在を示す<在る>は基本的な言葉だ。存在が先か認識が先かは哲学の問題だ。<我思う、故に我あり>。所在は場所を示す語で、<XXに在る>だ。

<あり>は日本語で<在り>とも<有り>ともとれる。いや、以上に述べたことから、<在り>でも<有り>でもある、<在り>でもなく<有り>でもない、存在と認識と表現すべてを含む超越<あり>と理解したらどうか。いずれにしても大和言葉<あり>は大きな動詞で、これに相当する動詞は英語(おそらく西洋語)にも中国語にもない。


或る>について

これも中国語が大いに参考になる。<或る>は動詞ではない。日本語では<或る>は大体不定のモノ、コト、ヒトをさす。或ること、或るもの、或るひとだ。ただ、あまり漢字の<或>は使わず、あること、あるもの、あるひとだ。もちろん話したり、聞いたりするときには<或る>と<ある>の区別はない。すべて<ある(aru)>だ。以上は英語では some (肯定の場合)。否定、疑問の場合は any になる。<或(ある)いは>は特別で or だ。
さて中国語だが、不定の<ある>は<有>だ。<有>が中国語の大動詞でもあるユエン(所以)だ。有人、有的、有些の形で使われる。一方 or の<或(ある)いは>は或者。


(注)<所>は中国版の関係代名詞。
現 代中国語では<所有>以外に<所以>(だから、ゆえに)<无所谓>(言うところなしー>どれでもいい、どっちでもいい)の<所谓>(いわゆる、と読む)が日 常よく使われるが、その他の<所谓>は文語のようで、日常会話にはでてこない。一方意外だが、日本語にはやたら残っており、文語とはかぎらない。
在(<ある>関連)、所存(これも<ある>関連)、所属(属性関連)、所感(認識関連)、所見((認識関連)、所信(表明)(五感ではないが認識関連)以外のも
所轄、所管、所願(成就)、所業、所産、所蔵、所帯、所定、所得、所望(しょもう)、所与。



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日本語文法とロジック - 2 、否定(ない)


日本語文法とロジックの第2弾。日本語の否定(ない)のロジックについて考えてみる。

前回のポストで少しふれたが、一応存在を示す動詞とした<ある>の否定は<ない>だが、<ない>は否定の動詞ではなく助動詞で、助動詞だから活用があるが、辞書(三省堂)の助動詞表では<形容詞活用>となっている。また<xx がない>の<ない>は形容詞あつかいだ。<ない>の関連語として古語、文語)<なし>もある。<なし>は語尾からより形容詞らしくみえる。

たのしい-たのしくない-たのしくする(なる)-たのしければ-たのしいとき-たのしいので-たのしかろう
ない(なし)-なくない-なくする(なくなる)-なければ-ないとき(なきとき)- ないので - ないだろう

<なくない>は形容詞(助動詞)+形容詞(助動詞)だが、後に否定が続く場合は未然形なので(日本語の原則)前の<なく>は<ない>、<なし>の未然形。<なくならない>は<あり続ける>の意だ。

古語には、<ず>があった。<あらず>で 存在を示す動詞<ある>を否定できる。ない(なし)はこれができない。 あらない(ダメ)、 あらなし(ダメ)。<あるない>、<あるなし>は否定にならない。

あらず、あらざり、あらざりき、あらざるとき、あらざれば、

さて、日本語には否定がらみの<係り結び>が以外と多い。<係り結び>は前の<係り語>と後ろの<結び語>で呼応があり言語上の約束ごと、文法)また、前の<係り語>であとが大体予想できる特徴がある。日本語の詩は脚韻がないが、<係り語>と<結び語>発音上ではないがで言語上の呼応と言える。 フランス語では<ne  xxx  pas >という係り結び否定が普通。

英語の翻訳調になるが

never - けっして (xxxx) ない、まったく (xxxx) ない。 never は普通頻度を表すが、まるっきり xxxx ない(口語)、これっぽちも xxxx ない(口語)も訳語として可能。

none -  まったく ない、すこしもみじん=微塵)も ない、 まるっきり ない(口語)、これっぽちも ない(口語

seldom - めったに (xxxx) ない

yet (not yet) - まだ xxxx し)ない、 いまだ xxxx せず

little、few - すこしも ない

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少しややこしいのに全部否定、部分否定というのがある。

always not  - 全部否定  - いつも xxx ない、 かならず xxx ない、まちがいなく xxx ない

not always  - 部分否定 - <いつも xxx ない>ではない(というわけではない)、.....

 all of them not - 全部否定  - すべて xxx ない

 not all of them - 部分否定  - <すべて(が) xxx ない>ではない(というわけではない)


もっとややこしいのに全部否定、部分否定の二重否定というのがある (省略)。



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