Saturday, May 4, 2013
日本語<有(あ)る>は自動詞、英語<to have >、中国語<有>は他動詞
前回のポスト<存在と認識の大動詞<ある>-在(あ)る、有(あ)る、或(あ)る>の続編。前回のポストで念入りに書いたつもりだが、私にとっては大発見であるので、こんどは少し角度を変えて考えてみる。
ポイントは<ある>が存在の<在(あ)る>と認識の<有(あ)る>の両方の意を含んでいることだ。存在の<在(あ)る>はいいとして<有(あ)る>が認識をあらわすことは説明が必要だ。三省堂の新明解国語辞典>の<ある>の解説中(有る、在る、何種類かの<ある>の順に並んでいる)の第一番目の<有る>として、
”
<有る>
1)見聞きしたり、感じたり、考えたり、などすることによって、その物事がみとめられる(状態を保つ)
2)そなわっていることが認められる((状態を保つ)
3)おこなわれる(はずだ)
”
と解説している。(前回ポストの繰り返し)
明らかに<有る>は認識をあらわす動詞という説明だ。目で見る、耳で聞く、鼻でかぐ、舌で味わう、肌で感じる(五感)ことでモノの存在、動きを認識する。<考える>はもちろん、五感によるモノの認識でも脳のあたらきがあるが、単純に五感でモノの存在、動きを認識するとする。コトの認識は短時間、長時間、簡単、複雑の差はあるが<考える>(脳のあたらき)が主のようだ。これで認識のプロセスはいいが、問題はなぜこれが<ある>という言葉と関連してくるかだ?認識のプロセスを動詞であらわすとせれれば、見る、聞く、かぐ、味わう、感じるという動詞がある。感覚動詞ということで、これらの動詞を<感じる>で代表させよう。すると、<モノの存在、動きを認識する>は<モノの存在、動きを感じる>でいいわけだ。
前回ポストで
”
以上は簡潔にいえば、<有る>は<モノ、コトの存在を感じること>をあらわす動詞ということになる。
”
さらに
”
基本的には或いは当たり前だが、<ないモノ、コト>、<存在しないないモノ、コト>は認識できない。ここに<存在>がからんでくる。
”
と書いた。
かなり正しい分析だと思うが、普通の日本語では”<有る>は<モノ、コトの存在を感じること>をあらわす”というような西洋哲学の翻訳的な言い方はしないのだ。
存在をあらわす動詞<ある>と認識をあらわす<感じる>の大きな違いは<ある>が自動詞であるのに対して<感じる>は<XXを感じる>で他動詞ということだ。別のポストで書いたが<感じる>は<感>の字からも<かんじる>とひらがなで書いても大和言葉ではない。見る、聞く、かぐ、味わうは大和言葉だ。見る、聞く、かぐ、味わう、も他動詞だが、微妙に差がある。
XXを見る、XXを聞く、はまあいいが、XX(のにおいを)をかぐ、XXを味わう、とはあまり言わず、
XX(のにおいを)をかぐ、は
XXがにおう、Xのにおいがする、XXの香りがする、などになる。
XXを味わう、は XXの味がする、になる。
漢語由来の<XXを感じる>も XXの感じがする、というのが普通のようだ。
XXを見る、XXを聞く、も、XXが見える、XXが聞こえる、という方が多いだろう。
また以上は単に<を>のあるなしによる他動詞、自動詞の区別ではない。海見れば、声聞けば、で十分日本語であり、<を>がなくても<見る>、<聞く>は他動詞だ。
ヒトの活動である認識はある対象を感じる、とらえることなので、頭の中で使う動詞は他動詞になろう。しかし、言葉は表現だ。認識だけでは頭の中にとどまる。表現方法はひとつではなく、いくつか異なった方法がある。日本語では上記のように、モノ、コトの認識をあらわすのに、本来認識活動は他動詞的であるにもかかわらず、これを表現するときには他動詞より自動詞が使われる傾向にある。
さて、モノ、コトの認識の<存在>をあらわす方法だが、英語、中国語では他動詞の <to have>、<有>だ。<存在>の認識も認識は認識なのだ。これに対し日本語は<ある>を使う。<有る>と漢字を使っても、<ある>は<ある>で、これは自動詞。
また繰り返しになるが、
”
<有る>は<モノ、コトの存在を感じること>をあらわす動詞ということになる。
”
<感じる>は<あるモノ、コトを認識した後にそれを心理的に持つこと>に相当する。この<持つこと>をあらわそうとすれば、<持つ>という意味の動詞を使うのは自然なことだ。これが英語、中国語で<to have>、<有>が使われるようになった原因、理由だろう。
もう一度三省堂国語辞典の今度は<有る>の解説を見てみよう。
”
<有る>
1)見聞きしたり、感じたり、考えたり、などすることによって、その物事が認められる(状態を保つ)
2)そなわっていることが認められる((状態を保つ)
3)おこなわれる(はずだ)
”
<XXを認める>ではなく<XXが認められる>だ。<あるモノ、コトの存在を認める>を<to have>、<有>とみるのは可能だが、存在をあらわす<ある>とみるのはまず無理。一方<あるモノ、コトの存在が認められる>を<ある>とみるのは日本人でなくても、心理的な抵抗はあるかもしれないが、可能だ。但し英語、中国語を使うヒトにとっては<認められる>という感じ方、見方は例外的だろう。<コトバ先にありき>とすれば、英語圏、中国語圏の子供たちは、<to have>、<有>をきわめて頻繁に使うことによって、<to have>、<有>がもつ他動詞的な感じ方、見方をするようになるのだ。XXを感じ、XXを見る、のだ。XXが感じられる、XXが見られる、ではない。
認識の存在を表すのに他動詞を用いるのがいいのか、自動詞を用いるのがいいのかは決めがたい。個人的には、モノ、コトはヒトの認識に関係なく存在すると思うので、モノ、コトの存在の認識を表すのに存在の意も兼ねそなえた<ある>を使う、使えるのは主観から生じる間違えを少なくするので、わるくないと思う。しかし<ある>一語で<モノ、コト、(モノ、コトの)動き、出来事、現象>の存在そのものと無意識のうちにこれらの<存在の認識>もあらわしてまうことは、悪い面もあろう(たとえば、<I made a mistake. >と<私に間違いがありました。>の違い)。解決策としては、<ある>が存在そのものだけでなく<存在の認識もあらわす、あらわせる>ことを意識することだろう。そういう意味で、三省堂の新明解国語辞典に感謝する。
sptt
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