Friday, September 15, 2023

<が>と<は>の使い分け。中国語ではどうする。-10(xxが聞こえる、見える)

 

前々回のポスト

<が>と<は>の使い分け。中国語ではどうする。-8(xxがわかる)

 の最後の方で


没听明白。没听懂。
あなたの言っていることがよくわからない、よく聞き取れない。

と書いた。<听(聴) >はよく聞く。

<聞く> の<聞>は多分相当昔の中国語で、今は

聞く= 听(聴) 

一方<見る>の<見>も多分相当昔の中国語のようで、今は

見る= 看 (看病、看護婦の<看>だ)

日本語では 

xxを聞く、見る

という言い方と

xxが聞こえる、見える

という言い方がある。どういうわけか、英語も似たようなところがあり

I see xx : xxが見える
I look at xx : xxを見る
I hear : xxが聞こえる
I listen to : xxを聞く

中国語はどうなっているのか?

すこし調べてみたところ、相当複雑。そこで、もう少しよくすこし調べてみたが、きわめて複雑。

よく聞くのは

看到  ー 見える
看不到  ー 見えない
看不见  ー 見当たらない、なくなった   (ここで<见 (見) >が出てくる)

听到 ー 聞こえる
没听到  ー 聞こえない

以上は、日本語では<xxが見える、xxが聞こえる>だが、たいていは<xxが目に入ってくる>、<xxが耳に入ってくる>で<xxを見ることができる、xxを聞くことができる>の意ではない。だが中国語の場合は、上の<見える>、<聞こえる>は

看到 ー xxを見ることができる、できた
听到 ー xxを聞くことができる、できた
没听懂 ー よく聞き取れない、聞いてもよくわからない
听不懂 という言い方もある。

<没听懂>、<听不懂>は

xxがよく聞き取れない、xxはよく聞き取れない
xxは聞いてもよくわからない (xxが聞いてもよくわからない、はダメ)

没听懂は: 聞いたところ (听) 、わから (懂)、ない ( 没、没有)
听不懂は: 聞いたところ (听) 、わから (懂)、ない ( 不)

さて<xx> の位置だが、

xx看到 (了)。でも 看到 (了)xx。
xx听到 (了)。でも 听到 (了)xx。

でもよさそう。

ネット翻訳では

海が見える
我可以看到大海

これは変な中国語で

<見える>を<見ることができる>、可能として訳しているのだ。そして主語 (主体) との<我>が頭に来ている。一方日本語は主語 (主体) と考えられる<海>が頭に来ている。簡単な文例だが、この二つは大きな違いだ。

海が見える

は I see the ocean. で I can see the ocean. ではない。またネット翻訳では

富士山が見えます。
今天能看到富士山。

<能>はのポストで書いたが、能力、条件により<できる>。<到>は達成。<看>は<見る>で、見える、見えないに関係なく<見る>という行為を指していう。これは中国語と日本語のきわめて大きな違いで、日本人は慣れるまでには時間がかかるかもしれない。また、この中国語文例では主語 (主体) があらわされていない。主語 (主体)と考えられる発話者<我>がないのだ。これを<我>の省略とみるか、こういう言い方 (能看到) では<我>はいらないとみるかで文法上は大きな違いがある。

<我>はいらないとみると、主体は<今天>ではなく<富士山>になる。 主語 (主体)と述語が転倒している、とみる。<今天>は時を表す副詞だ。一方日本語の方は、主語 (主体)は格助詞<が>の前にある <富士山>だ。格助詞<が>は普通主語 (主体)をあらわすが、<私はxxがしたい、欲しい、好きだ>のように目的語を示す場合もある。 

<が>が普通主語 (主体)をあらわす場合

<今は>はいわゆる主題をあらわし<今日と言えば>という説明でもいいが、時を表す副詞とみなしてもいい。簡単に

富士山が見える

とすると、<富士山>が主語 (主体)、<見える>が述語になる。

<が>が目的語を示す場合

この場合は 主語 (主体) がないといけないのだが、<私はxxがしたい、欲しい、好きだ>にならうと

私は富士山が見える。

となり、日本語としてはやや変だ。 

私には富士山が見える。

とすると<変さ>は少し減る。<見える>をどう解釈するかだが、これまた<私はxxがしたい、欲しい、好きだ>にならうと

 見える ー したい、欲しい、好き

となるが、どうもナンセンスだ。 したがって、<が>は目的語を示すとは言えない。くどいようだが

私には富士山が見える。

は、上の中国語自動翻訳のような

私には富士山を見ることができる。

ではない。この<見える>は<富士山が目に入ってくる、目にうつる>で自動詞、決して他動詞ではない。英語では

I see Mount Fuji. 

で、文構造は違うが (主語―動詞―目的語)

私には富士山が見える。私は富士山が見える。

の意味だ。ここで to see は他動詞。だが<私は富士山を見る>の意ではない。話は相当混乱して、まとまりがついていない。とにかく複雑なのだ。

ところで

私は富士山が見える。

まったくダメだが

私には富士山が見える。

<すこし変>程度だ。さらに

私に富士山が見える。

はどうか。これは<すこし変>だが、まったくダメでもない。英語で言えば to me になり

 I to me see Mount Fuji. 

となるが、これはまったくダメだ。言い換えて

Mount Fuji is seen to me.

ならいい。これは<私に富士山が見える> にかなり近い。to see は他動詞で、その受け身は自動詞的になる。<見える>は自動詞で<xxが見える>で<が>をとる。言葉遊びのようになっているが、<私に富士山が見える>の<私に>は<私には>ほど改まった感じはないく、また一音節みじかいので、新日本語用法候補だ。

さて、日本語でも<さがす>は、<さがす>行為を言い、<さがした>では<さがしあてた>、<見つけた>、<見つかった>にならない。

英語では、to find がやっかいで

I find my wallet. は何のことだかよくわからない。

I (will) try to find my wallet. 財布をさがす。

I tried to find my wallet. 財布をさがそうとした。 (だが、見つからなかった、見つかっていない)

I found my wallet.  財布を見つけた。(自分が見つけたのでなくとも、こう言うだろう)財布をさがし出した。財布が見つかった。

さて、中国にもどると、行為が達成した、結果を出した場合は<到>がよく使われる。よく引き合いに出されるのは<买 (買)>で

买 : 買う行為を意味し、結果的に買う買わないは問わない。
买到 : 買って手に入れる。過去、完了の<買って手に入れた>とはかぎらない。

例文。会話本<中国語 とっさのひとこと辞典>から抜き出すと

チケットは買った?
买票了吗?

<买到>ではないので、必ずしもいつもを使うわけではないうようだ。

チケットはどこで買えますか?
在哪儿可以买到票?   

ここでは<可以>、<买到>と念が入っている。したがって<どこでチケットを買って手に入れることができますか?> <买到>だが過去のことでない。上で<我可以看到大海、これは変な中国語で>と書いたが、中国語では<変>ではなさそうだ。

どれを買ったらいいと思う?
你觉得哪个买好?

これも<买到>ではない。

ところで<売る>は< 卖>だが、<売って手放す>で< 卖到>にはならないようだ。よく耳にするには< 卖完>で<売り切れる>。买 (買う), 卖 (売る) で簡体字ではにている。买は mǎi、卖は mài と発音する。
 
では、中国語ではこのようなことが多くの動詞に当てはまるのか、というとそうではない。だから恐れることはないのだ。<探す>は<找>でこれは日本語と同じ。

找 : 探す行為で、結果的に探し当てる、見つかった、見つからなかったは問わない。
找到 : 探し当てる、 探し当てた。 

上の日本語の<当たる>も<探す>に見たようなところがあるが、同じではない。

当てる:基本的には当てようとする行為で、<宝くじを当てた> とはあまり言わないが<的を当てた>はOK.つまりは、結果的に<当てた>と言える。

当たる: 結果的に当たる。だが、当てようとして<当たる>場合もあるが、<宝くじが当たった>は当てようとして<当たる>ではない。

<当たる>は<遭遇する>、予期しないで<会う> 。<背が高く、天井が低いので、頭が天井にあたる>という言い方がる。これは<触れる>で、<触れる>似たような<さわる>もある。ところで、日本では<頭上に注意>と言うが、中国では<小心碰头>という。深圳では場所により英語表示があり、昔は<Be careful collision head>と書かれていた。香港では<Mind your head>。さて<触れる>、<さわる>だが、

さわる: 触 (ふ) れようとする行為で、これは<xxに手でさわる>で自動詞、<xxを手でさわる>で他動詞になる。<さわる>は結果的に<さわった>と言える。

触れる:天井が頭に触れる。<触れる>も<xxに手で触れる>で自動詞、<xxをで触れる>で他動詞。これも結果的に<触れた>と言える。

どこか別のところで書いたが、セクハラ論議。

女性:手でさわったのよ。(これは<手でxxをさわる>なので、他動詞だ。)
男性:手が触れただけだ。 (これは自動詞。主体 (この男性) に<さわる>意図がない)

さて中国語の<碰>は<ぶつける>、<ぶつかる>が基本的な意味で、<当てる>、<当たる>、<xxに遭遇する>、<xxに会う>と言った意味もある。日本語は少しややこしく

xxをyyにぶつける、当てる ー 他動詞
yyにぶつかる、当たる ー 自動詞
yyに会う ー 他動詞のようだが、<xxを会う>とは言わないので自動詞。


だいぶ横道にそれたが、<xxが聞こえる、見える>の話にもどる。繰り返しになるが

I see xx : xxが見える
I look at xx : xxを見る
I hear : xxが聞こえる
I listen to : xxを聞く

看到  ー 見える、見えた
看不到  ー 見えない
看不见  ー 見当たらない、なくなった   (ここで<见 (見) >が出てくる)

听到 ー 聞こえる
没听到  ー 聞こえない

<聞く>は<听><聞こえる>は <听到>のようだが、これはどうも<聞こうとして、聞こえた>のようで、<I hear : xxが聞こえる>ではないようだ。とにかくややこしいのだ。<見る>、<見える>、<聞く>、<聞こえる>、は五感動詞の視覚、聴覚。五感動詞としては他に、上で触れた触覚の

さわる、触れる(自動詞にも他動詞にもなる)

xxが頭にさわる、触れる
手で頭をさわる、これに手を触れてはいけません。

臭覚もややこしい

xxがにおう、xxのにおいをかぐ

英語は to smell が自動詞にも他動詞にもなる。

It smells well.
This flower smells like a perfume.

I smell it.
I will try to smell this flower.

味覚もまたややこしい。

xxの味がする
xxを味わう

英語は to taste が自動詞にも他動詞にもなる。

This chocolate tastes good.
You will try to taste this chocolate.  

以上はややこしいところもあるが、規則的なところもある。日本語では

xxが見える
xxが聞こえる
xxがさわる、触れる
xxがにおう

以上は純自動詞で普通は<が>が前にくる。

yyはxxの味がする 

<味わう>という他動詞はあるが、対応する自動詞がない。上のいくつかに<変な>中国語翻訳にならうと<xxが味わえる>が自動詞相当になる。<xxが味わえる>はあまり聞かないが、場面によっては使用可能だ。だが<xxの味がする >の意にはならない。

さて、中国語の方だが、中国の文法書 (汉语口语语法、A Grammar of Spoken Chinese というタイトルの英語版の中国語訳。赵元任著、呂叔湘訳) で調べていたら、五感動詞での説明ではないが、まさしく五感動詞の用法で、新発見をした。結果補語と言われる<见>を使った表現で五感動詞がでてくる。抜き書きすると

:“见”不大用普通结果补语。作为动相补语的。“见”用于表感觉的动词, 极为常见

看见,听见,闻见,梦见,碰见,遇见

用<x见> 的一个条件是动词必須是表示“主动者”遇到的动作而不是他主动去做的动作。

さらには

比如说 “摸“ 或 ”梦“ 是表示被动的感受还是主动的动作 . . . . 

” 

といった言及がある。つまりは

<x见>は主体が偶然 (たまたま) する動作 (行為)で結果を得る、主体の主動的動作で結果を得る結果ではない。あるいは動的に得る結果をあらわすのではない。

ということ、さらにつまりは自動詞的

看见 ー 見える
听见 ー 聞こえる
闻见 ー におう  <闻>は<聞く>ではなく嗅(か)ぐ>。
梦见 ー 夢に見える、現れる      これは普通の五感動詞では出てこない。新発見。
碰见 ー ぶつかる、当たる、触れる

以上は日本語では<が>が前に来る自動詞。

遇见 ー xxに会う、xxに遭遇する、に当たる  これは五感動詞ではない。

ということなのだ。何が新発見かと言うと

わたしが最近読み返している日本人向けの中国語の本では、<见>このような説明ではなく

やさしくくわしい中国語文法の基礎(旧版)>

視覚、聴覚、臭覚などで感じ取る

<日本人のためのワンフレーズ中国語>

私にの言うことが聞こえましたか?
我说的话,你听见了吗?

<听>の後ろに、<感じ取る>という意味の<见>がきて<ちゃんと耳に入る> ことを表す。

中国語の本<现代汉语 八百词>でも

作动结式第二成分, 表示感觉到。多和视觉,听觉,嗅觉等有关。中间可挿入”得,不“。

という解説だ。

つまりは、<到>とほぼ同じで、五感動詞に使う、という表面的な解説なのだ。

 

追加 

<見える>では<が見える、中国語>でネット検索したら、それらしい (<見える、目に映る〕>に近い) のもあれば、<見ることができる>もたくさん出てきたて、ますますわけがわからなくなった。

 

https://kotobank.jp/jazhword/%E8%A6%8B%E3%81%88%E3%82%8B


日本語の解説|見えるとは

日中辞典 第3版の解説

見える, みえる

1〔目に映る〕可以看见kěyǐ kànjiàn看到kàndào

向こうに高層ビル群が~見える|远处可以看见一片高楼大厦.

屋上から富士山が~見える|屋顶上可以看到富士山.

ホテルの部屋の窓から故宮が~見える|从宾馆房间的窗子可以看到故宫.

遠くに街の明かりが見えてきた|远处可以看到街市的灯光.

今夜は星がよく~見える|今晚的星星看得很清楚.

ここからは何も見えない|从这里什么也看不见.

声は聞こえるが姿は見えない|听得见声音看不到人.

前に背の高い人がいて舞台がよく見えない|前面有个高个子挡着dǎngzhe,看不清舞台.

ようやく健康回復の兆しが見えてきた|终于看到了健康恢复huīfù的迹象.

長引く不況で経済の先が見えない|长期持续萧条xiāotiáo,无法预测将来的经济情况.

 ー 以上<看到>が多いが<看见>もある。上の例文では区別がつかない。初めの5-6例文は目に映る〕だが、最後の方の例文は<見ることができる、できない>で解釈できる。また全文主語 (主体) =発話者が出てこず

看到xxx
看不到xxx
什么也看不见

と言う言い方だ。

(sptt)

 

2〔見ることができる〕能看见néng kànjiàn

手術が成功して目が~見えるようになった|手术成功了,眼睛能看见了.

ネコは暗やみでも目が~見える|猫在黑暗中也能看见东西.

暗視ゴーグルをかけると夜間でもよく見える|戴上夜视镜yèshìjìng后,夜间也能看得很清楚.

失明して目が見えない|失明后,眼睛看不见了.

眼鏡をかけないとほとんど見えない|不戴眼镜几乎什么都看不见.

老眼で近くがよく見えない|因为是老花眼,近处看不清楚.

 ー<見ることができる、できない>でも<看见、看不见>が使われている。

 眼睛能看见了、眼睛看不见了

では< 眼睛=目>が主語 (主体) だ。日本語でも<目が見えない>だが、考える変な言い方だ。

(sptt)

 

3〔判断される〕判断pànduàn看上去kàn shàngqu看来kànlái

外目には善人に~見える|外表看来像个好人.

傍目にはとても幸せそうに見えた二人だった|在旁人看来是很幸福的一对儿.

他人の目にどう~見えるか気になる|很在意别人怎么看.

彼はよほど悲しかったと見える|看上去他好像很悲伤.

大きな岩の形がトラのように~見える|大石头的形状看上去像一只老虎.

若々しくてとても60歳には見えない|显得很年轻,怎么看也不像是六十岁.

表情からは順調にいっているとは見えない|从表情上来看,好像不是很顺利.

 

4〔見つかる〕找得到zhǎodedào

同じようなケースが過去の判例の中に~見える|同样的案例可以在过去的判例中找到.

たしかここに置いたはずの書類がどこにも見えない|文件确实是搁在这儿了,可哪儿也找不到.

合格者の中に自分の名前は見えなかった|在合格的人名单上没有找到自己的名字.

 ー <見つかる、見つからない>は<找到>、<找不到>だ。(sptt)

 

5〔「来る」の尊敬語〕lái来到láidào来临láilín光临guānglín

まもなくお見えになるでしょう|过一会儿会来吧.

今度はいつお見えになりますか|下次什么时候光临?

さっき3人ほど見えましたよ|刚才来了三位.

ーーーー

会話本<中国語 とっさのひとこと辞典>から抜き出すと

佐藤さんを見かけた?
看见佐藤小姐了吗?

昨日誰に会ったと思う?
你猜, 我昨天看见谁了?

偶然<会う>は<看见>だが、意図して,約束して会うは<见面>。

どこで会う?
在哪儿见面?

彼 (彼女) を見ると緊張してしまう。
我见到他 (她)、就紧张。 

 ここでは<到>が使われている。使い分けが難しい。


sptt


 

 

 

 

 


 




 

 

 

 

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