Thursday, September 7, 2023

雨がふる。雨はふる。

 

<雨がふる>というのが普通だが<雨はふる>という言い方もある。 <雨はふる>の代表は北原白秋の<城ヶ島の雨>という歌の歌詞の出だし

雨はふるふる 城ヶ島の磯に
利休鼠の 雨がふる

だ。 少し調べた限りでは歌詞の説明 (利休鼠とは何かなど) はあるが<雨がふる>と<雨はふる>の違いの説明はないので、試みる。

<が>と<は>の違いは複雑で収拾がつかないようだが、主な違いは前回のポスと "<が>と<は>の使い分け。中国語ではどうする。"  で紹介したが

1)伝えたい情報(新情報)には「が」、すでに分かっている情報(旧情報)には「は」を使う。

2)現象をそのままいうときは「が」、判断、評価したときは「は」を使う。

<雨ふり>は自然現象なのでふつうは<雨がふる>。上の解説からすると

雨はふる

は 1)旧情報の伝達、2)判断、評価

となる。

雨はふるふる 城ヶ島の磯に
利休鼠の 雨がふる

の<雨はふるふる>はどちらかというと

1)旧 (既知) 情報の伝達というよりは、2)判断、評価、に近いが、いまいち。

 <雨はふるふる>の雨はどんな雨か?

対照的なのは続く<利休鼠の 雨がふる>の<雨がふる>で、こちらの方は

2)現象をそのままいうときは「が」 

でいいだろう。だが

1)新情報、旧情報の区別からすると


昔々、あるところにおじいさんとおばあさん住んでいました。ある日、おじいさん山へ芝刈りに、おばあさん川へ洗濯に行きました。

始めの<が>は、昔話の冒頭で、聞いている人にとっておじいさんとおばあさんが住んでいることが新しい情報のためです。続く<は>は、おじいさんとおばあさんは一度登場してしいて、聞いている人にとって既に知っている情報となっているためです。


の例にならうと

利休鼠の 雨がふる
(その利休鼠の) 雨はふるふる 城ヶ島の磯に

の順になる。だがこの並べ方では、<利休鼠の 雨がふる>が突然すぎて、聞きずらい。

<雨はふるふる>の雨はどんな雨か?

にもどって、<は>は主体ではなく主題を示す>というのがある。前回のポストで引用(コピー / ペイスト)したが


「は」は何を表すかというと、文の主題を表します。

主題とは「何について述べるのか」、つまり話のテーマで、後ろにはそのテーマについての解説が続きます。


<xxについて言えば>。<雨はふるふる>の後に<城ヶ島の磯に>があるので

<雨について言えば>、<雨ふる、について言えば>、城ヶ島の磯に(解説)

となり、問題なさそうだ。

だがこれもいまいちの説明だ。

 

<は>には、まり目にしないが、肯定、否定というのもある。一種の判断か。

雨はふるのか、ふらないのか?
雨はふる。(肯定)
雨はふらない。(否定)

雨はふったのか、ふらなかったのか?
雨はふった。(肯定)
雨はふらなかった。(否定)

だがこれもいまいち。

 

<は>には微妙だが、限定 (定) 作用がある。<が>が純限定に対し<は>は選択肢を残した限定だ。

私が行くことにする。

発話者の立場では<私>は純限定されており、<私>以外はない。

私は行くことにする。

<私>は限定 (定) だが選択肢を残した限定で、<私>以外も行くことが暗示されている。

<他の人も行くかもしれないが、とにかく)私はことにする。

この ”<は>は限定 (定) だが選択肢を残した限定 ” を応用すると

雨はふるふる 城ヶ島の磯に

の<雨>はある程度限定された意味になる。雨一般、どんな雨でもいい、というわけではない。話はややこしくなっているが、それでは一体

<雨はふるふる>の雨はどんな<ある程度限定された>雨か?

雨はふるふる 城ヶ島の磯に

は詩で、<は>が得意とする判断、評価、説明ではない。

これは作者の心にある<ある程度限定された>雨ではないか。

作者、または主体が思っている雨、感じている雨、気にしている雨。

あえて言えば作者の感情が入った雨、<感情移入された雨>と解釈したらどうか?

 

sptt

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

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